魏(220年~265年)の司馬懿は蜀(221年~263年)の北伐を防ぎ、遼東の公孫氏を滅ぼすなどの功績を挙げていきました。しかし魏の景初2年(238年)に魏の第2代皇帝である曹叡が亡くなって、息子の曹芳が後を継ぎます。曹芳は幼かったので、司馬懿と曹真の息子である曹爽が後見役に選ばれました。
正始10年(249年)に司馬懿はクーデターを起こして曹爽一派を排除。政治権力を握ります。これ以降、魏の政治は司馬一族のものになりました。
ところで司馬懿に排斥された曹爽一派にはどのような人物がいたのでしょうか?そこで今回は曹爽を支えていた仲間の1人である何晏について紹介します。
何進の孫 何晏
何晏は後漢(25年~220)末期の大将軍であり、袁紹と一緒に宦官掃討を計画した何進の孫です。何進は後漢第12第皇帝霊帝の外戚(=皇帝の親族)でもありました。
中平6年(189年)に何進は宦官掃討を計画しますが、計画はもれてしまい殺されます。
遺された幼い何晏と母の尹氏は経緯不明ですが、曹操の保護を受けることになりました。尹氏はその際に曹操の妾の1人に、何晏は曹操の養子になります。
どうやら何晏の父は、この時点で死んでいたようです。何晏の父がなぜ亡くなったのか史料は何も語っていません。おそらく袁紹・袁術兄弟が宦官掃討を行った時に攻撃に巻き込まれて亡くなったか、董卓に殺害されたと推測されます。
超絶ナルシスト発揮
何晏は若い時から文学・思想に関しては才能がありました。実際に彼が残した史料は今でも読むことが可能であり、数多くの研究が残されています。
このように才能にあふれた何晏ですが、性格はほめられるレベルではありません。彼は超絶ナルシストで有名でした。いつも化粧をしており、手鏡を携帯して念入りなチェックを欠かしません。歩く時も自分の影の形ですら気にする性格だったようです。現代にいたら確実にモデルとなって活躍していたでしょう。
また、夏侯玄・司馬師と仲が良くお互いに切磋琢磨していましたが心中では「俺が1番・・・・・・それどころか俺は神!」と考えていたようです。
付き合っているとイラッとくるタイプです。夏侯玄と司馬師は、こんな人とよく付き合ってあげました。彼らの度量の広さに感服です・・・・・・
曹丕は何晏の態度を嫌っており、在位中は表に出しませんでした。また、曹叡も上辺だけで実務に乏しいことから何晏を表に出しませんでした。
見苦しき最期
曹叡の死後、何晏に転機が訪れます。当時は曹爽が録尚書事(宰相)であり、尚書令(副宰相)が空席状態でした。何晏は同僚の鄧颺、丁謐、畢軌、李豊、諸葛誕と一緒に尚書の一般職員となり曹爽を支えます。
特別な行いをしたわけではありませんが、何晏は見事に曹爽政権の柱の1人となることに成功したのです。ところが、そんな何晏にも終わりがきました。正始10年(249年)の司馬懿のクーデターでした。曹爽が出かけている隙を狙い、司馬懿は挙兵。
あっという間に首都の洛陽を制圧しました。人はこの事件を「高平陵の変」と言います。司馬懿から「助命する」という手紙を送られた曹爽は、あっさりと降伏。もちろん手紙の中身はウソです。やがて曹爽は裁判にかけられました。司馬懿は何晏を裁判の責任者に任命。彼は助かりたい一心から曹爽やかつての同僚に次々と死刑を言い渡しました。
保身のために恩人を売るなんて、まさに愚かなことです。ところが世の中は甘くありません。全ての裁判の評決を終えた途端、司馬懿は何晏にも死刑を言い渡しました。義理も恩も知らない男を生かしておくほど、司馬懿は甘くなかったのです。こうして何晏は刑場の露と消えました。享年不明です・・・・・・
三国志ライター 晃の独り言
今回は何晏というマイナーキャラに焦点を当ててみました。この何晏は性格はマイナス要素が多いのですが、思想・文学で残した業績が大きかったので、今日数多くの研究が残されています。オシャレに感心があるのなら、どうしてファッションの書物を残してくれなかったのでしょうか?それが残っていたら世紀の大発見だったのに・・・・・・
※参考
・薛森健介「魏晋革命前夜の政界―曹爽政権と州大中正設置問題―」(『史学雑誌』95-1 1986年)
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