キングダムの時代は、一体どんな時代なのでしょう?
そして、始皇帝とは一体、何をして有名になったのでしょうか。
『はじめての三国志』では、それを超分りやすく説明します。
この記事の目次
秦の始皇帝が生まれた頃、中国はどうなっていた?
始皇帝は紀元前259年の正月に趙という国で生まれました。
7つの国に分かれて、およそ500年、
お互いに離合集散しながら、大戦争を繰り返した時代です。
当時は農業生産力が向上して人口が増加していた頃で、
戦争の規模も大きくなり、一度の戦争で何万人、
時には何十万という人間が死ぬのも珍しくありませんでした。
やがて始皇帝は、生まれた趙から秦に帰国し、
悲しい戦争が、度々起きる戦乱の世を終わらせて、
中国を一つにすると決意します。
これは、当時、誰も考えなかった壮大な夢でした。
始皇帝、呂不韋を追放して自ら政治を行う
紀元前247年、13歳で即位した始皇帝ですが、
その実権は始皇帝を即位させるのに手柄があった
呂不韋(りょふい)という人に握られました。
当初の始皇帝は籠の鳥だったのです。
しかし、呂不韋は始皇帝の母との間で不倫が発覚、
それを誤魔化す為に、色々と策謀を巡らしますが、
結局はバレて、始皇帝は呂不韋を処断して
自分の手で政治を行えるようになります。
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始皇帝、韓非の考えを採用して、人材を登用し秦を強くする
始皇帝は、性善説ではなく、厳しい法律で人を縛り、
悪事を減らして善事を増やすという法家という
思想家の考え方を採用します。
特に韓非(かんぴ)という人の考えがお気に入りでした。
法家は厳しい制度ですが、不正は必ず処罰し、
手柄には必ず褒美をとらせるという制度でしたので、
秦の人々はやる気を出し、軍隊はとても強くなります。
始皇帝は、さらに、能力のある人は、秦の人でなくても
身分が低くても問題にせず、どんどん登用したので、
王賁(おうほん)、というような有能な将軍を
沢山出して、残りの六国を攻略させます。
こうして、即位して26年で始皇帝は六国を滅ぼし
500年続いた戦乱の時代を終わらせたのです。
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王ではなく新しい皇帝の称号を造る
中国を統一した始皇帝は、自分の業績は古の三人の神皇、
そして、古代の五人の帝を併せた業績よりも凄いと考え、
神皇と帝から一字づつ取り、皇帝という称号を造ります。
そして、最初の皇帝なので始皇帝と名乗りました。
実は始皇帝は、この時からの称号で、それ以前の始皇帝は
秦王政と名乗っていました。
運河を掘り、貨幣を統一し、道路を整備して文字を統一
さらに始皇帝は、広大になった領土を効率よく統治する為に、
各種の大事業を起こします。
まず、当時バラバラだった貨幣を秦の貨幣に統一します。
これで商売は格段にやりやすくなりました。
また、馬車の車輪の幅を統一して、道路の幅も一定にします。
これにより、道路網が整備され交通が快適になりました。
そして、人口を支え、水運を便利にしようと各地に運河を掘ります。
これは商業を発展させ、人の往来を便利にし、農業生産力を上げました。
漢字を統一したのも始皇帝です、これで中国中どこにいても、
人々は同じ漢字を使用して物事を伝達できるようになります。
あと、これは評価が二分しますが、当時、国境を越えて
中国に略奪にやってきた匈奴を抑える為に長大な城壁である
万里の長城を築かせて、これを防ぎました。
これにより、中国は一つにまとまるようになりました。
その後も中国は分離と統一を繰り返しますが、
この「中国は一つ」という考えを漢民族に植え付けたのが始皇帝なのです。
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中央集権制度を造り、中国王朝二千年の基礎を築く
始皇帝は、そればかりでなく、中国の国の仕組みも変えます。
それまでの王朝は、国を統一すると、手柄を立てた家臣や、
自分の一族を中国の各地に派遣して小さな国を立てさせました。
これを封建体制と言います、
日本でも、鎌倉、室町、江戸幕府は
この封建体制を採用していました。
しかし封建制度は、何百年が過ぎると、
それぞれの小国の主が本国の王よりも
地元の利益を優先して命令に背いたり、
ひどい場合には、王の土地に攻め込んだりしました。
始皇帝は、このような弊害をなくす為に、
各地に家臣や一族を派遣して小国を建てさせるのを止めます。
代わりに中国を36の区域に分けて郡とし、その郡をさらに
細かく分けて県として、中央から役人を派遣して治めさせました。
この役人は、数年が経過すると、配置変えになり異動します。
その為に土地の人間と結託する事がなく、
ただ、皇帝の命令通りに働き、
税金を上に上納する存在になります。
こうして、一人の皇帝が、各地の役人を使って
全土を支配する制度を中央集権体制と言います。
実は、この中央集権制度の基本的な枠組みは、
今、世界中の国で採用されている制度で、
もちろん日本でも採用されています。
このように始皇帝の政策は、中国ばかりではなく、
世界中に大きな影響を与えているのです。
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