西暦212年12月より劉備(りゅうび)の益州攻略が本格的に始まります。
劉備は重臣である関羽(かんう)を荊州の守りに残し、
中盤以降は諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)を軍師に、
名将である張飛(ちょうひ)や趙雲(ちょううん)とともに益州の郡や県をどんどんと攻略していきます。
そもそも漢中の張魯攻略のために劉備の軍を招き入れることに反対していた
劉璋の臣は多かったのですが、
劉備に内応していた張松(ちょうしょう)や法正(ほうせい)が
巧みに劉璋(りゅうしょう)をそそのかしていました。
そのとき劉備を頼ることに大いに反対していたのが王累(おうるい)、劉巴(りゅうは)、
そして黄権(こうけん)です。
王累は実際に劉備の益州攻略が始まる以前に主君への抗議のために自決を遂げています。
黄権は広漢郡太守として劉備軍に対して徹底抗戦をします。
名将・黄権
広漢郡は益州の政都である成都の北部に位置する重要拠点です。
さらに北に綿竹があり、さらに北に涪城があります。
猛将である張任らが守っていましたが劉備軍の猛攻を受けて落城しました。
黄権は味方がどんどん崩れていくなかでも
徹底的に籠城し続け、約一年半もの期間守り通します。
劉備はその間に成都周辺の郡県をじっくりと
ひとつずつ陥落させて包囲網を厳しくしていきました。
やがて西の英雄である馬超が劉備に降り、
益州牧である劉璋もこれを聞いて戦意を喪失し、降伏してしまいます。
西暦214年5月のことです。
忠義を貫いた黄権も主君の降伏を聞いて城を開城し、自らも降伏します。
益州を平定した劉備は戦上手の黄権を偏将軍として取り立てます。
その後、黄権の戦略が功を為し、
劉備軍は魏の名将・夏侯淵(かこうえん)を漢中で討つことになります。
ちなみに蜀の四功臣として諸葛亮孔明、
龐統(ほうとう)らと並んで語られることもあるほどの功績をあげています。
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夷陵の戦い
西暦221年に劉備は義弟である関羽の仇討ちと荊州奪還の兵をあげます。
攻め込む先は呉の領土です。兵は劉備が直々に率いました。
戦上手の黄権は将として劉備に従って征東軍を率います。
そして進軍の状況を見て危険を感じ、自らが先鋒となることを進言しますが、
劉備に疎んじられて対魏に備えた江北に据え置かれます。
約一年の対陣の末、劉備は呉の総大将である陸遜(りくそん)の
計略にはまり大敗を喫することとなります。
呉の追撃は苛烈を究め、多くの将兵が戦死していくなか、
退路を断たれた黄権は魏に亡命することとなりました。
もともとの黄権の国を奪ったのは劉備ですから、
この離反で黄権の忠義を責めるのはお門違いかもしれません。
劉備も状況を鑑みて致し方ないと判断し、
蜀に残る黄権の家族が責めを負うことはありませんでした。
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軍師連盟・司馬懿との交際
魏に降っても黄権は堂々とふるまっており、
さらに劉備や諸葛亮孔明を信じて家族に危害が及んでいることはないと判断し、
世間の風評を信じませんでした。曹丕(文帝)に媚びるような言動もありません。
心地よいぐらいに潔いところが黄権の最大の長所なのではないでしょうか。
同じく蜀から降ってきた孟達を信じることをしなかった司馬懿ですが、
この黄権に対しては別の感情をもっていたようです。
もしかしたら軍師連盟でふたりの友情のシーンが見られるかもしれません。
司馬懿は黄権とは交流を深め、互いに認め合うようになります。
司馬懿が好敵手である諸葛亮孔明に送った手紙にもそう書かれています。
才能がありながらも野心がなく、
人を心から信じることのできる黄権は司馬懿と対称的です。
司馬懿は自分にない価値観を黄権から見出したのかもしれません。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
しかし、勝つためにはどのような手段でも有効活用する司馬懿ですから、
諸葛亮孔明に宛てた手紙にも別の意味があったのかもしれません。
黄権は魏にあっても臆することなく諸葛亮孔明の偉大さを口にしていたようです。
司馬懿が黄権に近づいた真の目的は敵である諸葛亮孔明を知るためでしょう。
そして「ある程度の手の内はわかっているぞ」という牽制を
暗にするために諸葛亮孔明に手紙を書いたに違いありません。
黄権と司馬懿が深く繋がっている。
これは少なからず蜀の陣営を動揺させたことでしょう。
しかしそれでも諸葛亮孔明は蜀に残る黄権の家族には危害を加えてはいません。
ただ敵方に蜀の内情を知り、さらに戦上手である黄権が控えているという事実は、
諸葛亮孔明にプレッシャーを与えることになったと思います。
それだけの存在感は黄権にはあったのです。
軍師連盟の主役・司馬懿にとってそれはとてつもない利用価値でした。
果たして軍師連盟ではこの手紙、どのように取り上げられるのでしょうか。楽しみです。
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