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【シミルボン】意外に現代っ子?飽きっぽく思いつき行動が多い曹操

2017年3月25日


 

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シミルボン

 

※こちらの記事は「シミルボン」に配信されているコンテンツです。

 

 

社会的に成功している人って、皆人格者のようなイメージですが、

実際はそうでもなく、子供っぽい所があったり、短気だったり呑気すぎたり

周りの空気が読めない人や、思いつきで事業を決める等、欠陥だらけの人もいます。

実は、三国志の英雄曹操(そうそう)も、その人生を丹念に見てみると、

およそ、歴史に名を残す偉人とは思えない、おっちょこ部分が多いのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操35歳、後先考えず敵を攻撃、全滅の損害を被る

 

西暦189年、曹操は洛陽で権力を握った軍閥の董卓(とうたく)に部下になるように

勧誘されますが、董卓に先は無いと断った事から董卓に追われる身になります。

 

董卓は皇帝を後ろ盾に、好き放題の暴政を敷いていたので、天下の群雄の反発を受け、

西暦190年、袁紹(えんしょう)を盟主にして反董卓連合軍が結成されました。

 

曹操は、それを知ると、自分の人生の転機だと衛茲(えいじ)という人物から

大金を借りて、それをばら撒いて5千の兵を編成して連合軍に参加します。

しかし、それぞれの群雄は、最低でも1万人の兵力を持っているのに、

曹操は五千名、誰も侮って相手にせず、どんな献策をしても採用しませんでした。

 

怒った曹操は、「率先垂範だ」とばかり、衛茲と共に董卓軍の徐栄(じょえい)と

交戦しますが、運の悪い事に徐栄は董卓軍随一の戦上手、曹操軍は散々に撃破された上に

曹操も矢傷を負って馬を失い、一族の曹洪(そうこう)の馬を借りなければ、

あわや討ち取られる寸前という大敗北を喫してしまいます。

 

もちろん、軍勢を失った曹操は、益々侮られバカにされる事になります。

意気込んで参加した割には、軽率な行動を取った事で曹操の評判はあがりませんでした。

 

統率力の欠如か、集めた兵に反乱を起こされる

 

兵を失っては、ただの個人曹操でしかありません、そこで曹操は腹心の

夏侯惇(かこうとん)と揚州まで降りていき、兵力の募集を始めます。

揚州刺史の陳温(ちんおん)と丹陽太守の周昕(しゅうきん)が骨を折ってくれ、

何とか四千名の兵を集めると曹操は帰還しようとしますが、

集めた兵が途中で何故か謀反を起こします。

 

反乱軍は、曹操のテントを襲撃、必死に戦い乱を鎮圧した曹操ですが、

この反乱に加担しなかった兵は、僅か五百名しかいませんでした。

後には、数十万の兵を統御した曹操も、最初は4000の兵に叛かれたのです。

 

呂布に兗州を奪われるが、半分奪還した所で徐州を攻めると言いだす

 

苦労していた曹操ですが、西暦192年、鮑信(ほうしん)や陳宮(ちんきゅう)に

推薦され、て劉岱(りゅうたい)の死後不在だった兗州の支配者になった辺りから

しだいに運が向き始めます。

 

しかし、それも束の間、曹操が隣国の徐州に攻め込んでいる隙を突いて、

腹心の陳宮が叛き、天下無双の豪傑呂布(りょふ)を引きいれて、

兗州を乗っ取ってしまいます。

幸い、荀彧(じゅんいく)や程昱(ていいく)のような賢臣が、兗州の

3つの城を堅守していたので、戻ってきた曹操は拠点を得る事が出来ました。

 

ここから曹操は、ガムシャラに戦い、何とか兗州を半分位取り戻すと、

徐州の支配者の陶謙(とうけん)が死んだという情報が入ってきます。

 

「よし!兗州奪還はひとまず休止して、もう一回徐州を攻めて奪おう」

 

出ました!曹操の気まぐれ発言、兗州は半分落したから置いておき、

陶謙が死んで混乱した徐州を攻略しようという一石二鳥作戦です。

この人、時々、こういう中途半端な事を言うのでビックリです。

 

しかし、この時には軍師として荀彧がいて、

「そんな事をして虻蜂取らずになったらどうします?」とキツめの

助言をしたので曹操は思い留まりました。

 

官渡の戦いで消耗戦に弱気になり、帰りゅ~発言

 

西暦200年、曹操は、北方四州を抑えた、当時の中国最強の群雄である袁紹と

天下分け目の戦いに入ります。

当初こそ、機動力で袁紹を押していた曹操軍も、大軍を擁する袁紹が十数万の

本隊を率いてくると力では勝てず、官渡城に籠城して、お互いに相手の補給部隊を

襲うという消耗戦に突入します。

 

 

 

しかし、数に劣る曹操軍の消耗は激しく、兵糧も一カ月を支えるのがやっと

いよいよ音をあげた曹操は、荀彧に一旦退却して体制を立て直すと弱気発言をします。

ここでも荀彧が、曹操を叱咤激励します。

 

「味方が苦しい時は敵も苦しいのです、弱気な事を言ってはいけません。

ここで引き上げれば追撃を受けて我が軍は全滅です、耐えて下さい。

劣勢は承知で受けて立った戦ではないですが、死ぬ気で頑張るのです!」

 

荀彧の激励を受けた曹操は、思い直し、いっそ餓死するまで耐えると決意、

その間に袁紹軍から内応者が出現、袁紹軍の心臓部である兵糧集積所の情報を得た

曹操は、騎兵5000で襲撃して焼き払い、奇跡の逆転勝利を掴みます。

 

またも思いつきであわや大惨事に・・九州事件

 

西暦203年、曹操は袁紹の残党を放逐して、都である鄴(ぎょう)を陥落させ、

冀(き)州を手に入れて冀州牧を兼任します。

 

ここで、ある人物が、曹操に言いました。

 

「古来、中華は十三州ではなく九州でしたから、ここで思い切って併合し、

元の九州にしてしまってはいかがでしょうか?

さすれば、冀州は、まだ敵地の并州と幽州を取りこみますから、

領土は広大になり、天下の人々は、ことごとく殿の威光に平伏しましょう」

 

曹操はよく考えもせず、領土が増えて服従する民も増えるならと、

大いに乗り気になりました。

 

しかし、ここで、再び、荀彧がやってきて反対意見を述べます。

 

「そもそも殿は、先日、冀州の袁尚(えんしょう)を破り審配(しんぱい)を捕えました。

それを見て、隣国の幽州と并州の豪族は、明日は我が身と恐れています。

ここで、并州と幽州を冀州に併合すれば、いよいよ、彼等は

曹操は自分達を討伐するつもりで領土を併合したに違いないと考え叛くでしょう。

そうなれば得をするのは、殿に叛いている袁尚であり袁譚(えんたん)です。

折角平定した冀州は、煮え繰り返り、すべては御破算になりましょう」

 

それを聞いた曹操は青い顔になり、以後、九州の話はしなくなりました。

 

冒険的な遠征、烏丸討伐から戻った後の一言

 

西暦207年、曹操は、北の烏丸族を頼って逃げた、袁紹の遺児、

袁尚、袁熈(えんき)を討伐する為に、長大な遠征を計画します。

多くの群臣は荊州の劉表(りゅうひょう)に背中を見せる事になると反対しますが、

袁家を滅ぼさないと、華北はいつまでも安定しないと曹操は押しきり、

計画に賛成した郭嘉(かくか)を参謀に連れて烏丸遠征へと向かいます。

 

しかし、曹瞞伝によると、その道のりは1000キロ以上もあり、

気候は厳冬で日照りに見舞われ、途中の80キロ以上は水がまるでない土地を通り、

食糧不足から、軍馬数千頭を潰して食糧にあて、井戸は70メートル以上を掘り

やっと水源に当たるというような冒険的な遠征になりました。

 

戦に慣れている曹操でさえ途中で音を上げ、郭嘉は無理が祟って病が進行、

凱旋するや病床に伏して亡くなりました。

戦いには、勝ったとはいえ、失うモノも多い辛勝だったのです。

 

曹操は帰還すると、烏丸遠征に反対した家臣を調べるように命令します。

何事かと怯える家臣達ですが、曹操は彼等に手厚い恩賞を与えました。

 

「いやー、今回の勝利は本当に天の助けで、まぐれであった。

これを当たり前だと思ってはいけない。

君達は、よく私を引きとめようとしてくれた、今は感謝している。

だから、感謝の印として恩賞を与えているのだ。

いいか諸君、今後も恐れずに私に対する諫言をよろしく頼むよ」

 

私は、うっかりさんだと自ら認めたような曹操の言葉でした。

 

シミルボン

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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