北宋(960年~1127年)の景徳元年(1004年)に、北宋第3代皇帝の真宗は北方の遼(916年~1125年)と和議を結びました。
澶州(現在の河南省濮陽市)で結んだことから、この和議を「澶淵の盟」と呼びます。
ところで、澶淵の盟が結ばれた澶州とはどのような場所なのでしょうか。
この場所は「はじめての三国志」が主として取り扱っている三国志と深い関わりのある土地なのです。
今回は澶淵の盟が結ばれた澶州が、どのような場所だったのかご紹介致します。
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曹崇暗殺事件
後漢(25年~220年)の初平4年(193年)のことです。
曹操の父の曹崇は戦乱を避けるために、徐州(現在の山東省)に避難していました。ところが徐州の長官の陶謙の襲撃を受けて命を落としました。
当時は袁紹と異母弟の袁術が天下を争っていました。曹操は袁紹に付き、陶謙は袁術に付いていました。曹崇暗殺は、陶謙による挑発行為でした。曹崇の死を聞いた曹操は報復を口実に、徐州に攻め込みました。
徐州の大虐殺と陳宮と張邈の反乱
曹操は初平4年(193年)と興平元年(194年)の2回に渡り、徐州を攻めました。この時に多くの民が殺されました。
確証はありませんが、蜀の丞相の諸葛亮も幼年時代に、この戦乱か逃れたとされています。
さて、曹操が徐州を攻めている時にとんでもない報告が入りました。部下の陳宮と張邈が、曹操の本拠地の兗州(現在の河南省)で反乱を起こしたのです。
それどころか新しい主君として、外部から呂布を招いたのです。陳宮はマンガやゲームでお馴染みの曹操初期のライバルです。
ただし、詳細な経歴は分かりません。
分かっていることは、曹操と徐州攻めの意見で対立したことから、反乱を起こしたことです。
張邈は曹操の友人です。曹操は張邈を信用しており、子供たちには常に「自分に何かあったら、必ず張邈を頼るんだぞ」と言ってました。そこまで信用していたのですから、裏切られた時の曹操は相当ショックだったでしょう。
濮陽の戦い
兗州は、ほとんど呂布の手に落ちました。ただし、荀彧と程昱の2人だけが降伏せずに奮戦していました。徐州から引き返した曹操は、呂布と濮陽で戦いました。この濮陽こそ、約800年後に北宋と遼が澶淵の盟を結んだ澶州なのです。
戦は呂布が有利に展開しました。曹操自慢の青州兵も敵いません。この時、曹操は呂布の兵士に捕縛されました。
しかし、誰も曹操の顔を知りません。
曹操は、ぴんとひらめいて「向こうの黄色い馬に乗ったやつです!」と答えました。馬鹿な呂布の部下は、それを信じて行ってしまいました。
こうして曹操は九死に一生を得ました。
その後、イナゴが来て作物を食い荒らしたので、両軍の兵糧が尽きました。呂布と曹操は仕方なく、軍を撤退させました。
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曹操の勝利
その後、袁紹が仲介して和議を結ぶことを提案します。曹操も最初は、その話に乗りますが程昱の説得で思いとどまります。
興平2年(195年)に、曹操は呂布を奇襲して打ち破りました。敗走した呂布は陳宮と一緒に逃げました。張邈も逃げましたが、途中で部下に殺されました。曹操は張邈の父母・兄弟・妻子を皆殺しにしました。
裏切ったとはいえ、やり過と思うかもしれません。しかし、曹操はそれだけ張邈を信頼していたのです。
この事件は曹操にとって、深い傷になったと思います。
三国志ライター 晃の独り言
今回は久しぶりに三国志関連の記事を執筆しました。やっぱり三国志の記事は書くと心が晴れますね。
宋代の記事は書くといつも鬱になります。
この差は何でしょうかね?
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