李斯(りし)はキングダムでは呂不偉の配下として登場しています。現時点では、大した事はありませんが、李斯こそは、その後2000年続く中国王朝の基礎、中央集権制を完成させた人物として多大な功績を残した人物なのです。そんな李斯も、元々は故郷、楚の小役人として平平凡凡な人生を終える予定でした。ところが、鼠との出会いが彼の運命を激変させるのです。
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小役人として楚に仕える李斯
李斯の産まれた年は、分かっていませんが、楚の上蔡(じょうさい)という土地の出身で学問が出来る環境にはあったようです。若い頃の李斯は、キングダムの他の英雄達と違い、これという野心も無いマイホーム主義でただ、定時に出勤して帰るという日々を送っていました。このままなら、多少の変動はあるにせよ、李斯の名前が歴史に出る事は、決して無かったでしょう。
李斯の運命を変えたトイレの鼠と倉庫の鼠
順風だけど物足りない毎日を過ごしていた李斯。ある日、いつものようにトイレに立つと糞便桶の中で鼠が蠢いているのを目にします。トイレの鼠は、人の糞便を喰らい臆病で人の姿を見ると逃げ去ってしまいます。それから、李斯は食糧の在庫を確認する為に、倉庫に向かいます。そこにも鼠がいました、ここの鼠は米をたらふく食べて丸々太り、人間が近づいても逃げようともしません。
李斯の脳天に衝撃が走る
これを見た瞬間、李斯は頭に雷を受けたような衝撃を受けます。
「便所の鼠も倉庫の鼠も同じ鼠に違いはない・・だが、便所の鼠は糞便を喰い人の姿を見るとコソコソ逃げる。一方で倉庫の鼠はどうだ?貧民なら口に出来ない米をたらふく食い人が来ても逃げようともしないではないか。自分は楚という今にも滅びそうな国で便所の鼠のように、何かに怯えながらいきている、こんな人生は真っ平だ!どうせ生きるのなら、俺は倉庫の鼠になるぞ」
李斯は悟りました、人間も鼠も同じであり、能力云々ではなく、その時にどこにいるかが大事であると、、
李斯、楚の役人を辞めて荀子の門を叩く
李斯は、その日の内に辞表を出して役人を辞め、お金を工面して荀子(じゅんし)の門を叩いて、その門下生になりました。荀子は法家の思想を教える人物で、李斯はここで一から法家を学び、当時、中国を支配する勢いのあった秦に仕えようと思ったのです。
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李斯、呂不偉(りょふい)の推挙で秦に仕官する
学びを終えた李斯は、秦に入り当時大勢の食客を抱えていた呂不偉に採用されます。法家の知識に優れた李斯は、呂不偉に重宝される事になったのです。
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李斯、嫪毐(ろうあい)・呂不偉の禍で追放されそうになる
その後、呂不偉の引き立てで秦王政に会った李斯は、金銭で六国の切り崩しを図る事を提言して注目され、実際に各国に入り将軍と王族の離間工作を計り成功します。ところが紀元前237年、他所者の嫪毐(ろうあい)が反乱を起した事で、秦の中で、外国籍の家臣の不信感が増大して追放運動が起きました。呂不偉も処分され、楚の出身である李斯も追放されかけます。
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李斯、諫逐客書を提出し、行き過ぎを諌める
しかし、ここで李斯は哀れみを請うのではなく一転して攻めに出ました。諫逐客書(かんちくきゃくしょ)という書を出して、これまでいかに秦が他所者を厚遇した為に発展してきたかを理路整然と説明してきたのです。秦王政は、李斯の態度に感心し、追放令を撤回すると共に、これまで以上に李斯を重く用いるようになります。
李斯焦る、秦王政が韓非を呼び寄せる
ようやく秦王の心を掴んだ李斯ですが、この頃、政は、韓非子(かんぴし)という法家の理論書に夢中になります。
「余は、この本を書いた人物に会えたなら死んでも悔いはない」韓非子を読み終えた政は、感激し口々にこのような事を言いました。
たまたま、韓非を知っている家臣がいて、韓非は韓の王族であると言ったので政は、韓に使いを遣り韓非子を呼び出します。李斯はこれを聴いて危機感を持ちました。韓非は、荀子の所で学んでいた頃の同門で学力においては、李斯が全く及ばない程の天才だったからです。
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李斯、讒言によって韓非を毒殺
ところが、韓非には吃音があり人前では碌にしゃべれない人でした。書のような雄弁な人物をイメージしていた政は「あれ?」とガッカリし韓非をしばらく秦に留めておきます。これは李斯にとってチャンスでした、すかさず李斯は政に対して韓非の悪口を吹きこみます。政は、これを真に受け韓非子を獄に繋いでしまいます。李斯は、さらに讒言して、とうとう韓非に毒を与えて自殺させました。
始皇帝、天下を統一李斯は中央集権制を主張
紀元前221年、秦は史上初めて中国を統一します。多くの家臣は、それまでの殷(いん)や周(しゅう)のように、それまでの六国の地域に秦の皇族を派遣して王に封じる封建制の政治を提言しました。しかし、李斯はこれに猛烈に反対して中央集権制を述べます。
「そもそも、殷・周の政治の衰えは、長い歳月の間に本国に暗君が出て、周辺国に賢公が出た事にあります。こうして、何百年が経過すると諸国の力は本国を上回り、やがて、これを軽んじるようになりました。秦の時代を千年太平にするには、諸国に王など置かない事です」
李斯は、こう封建制のデメリットを主張した上で中国全土を36の郡に分けて、さらに郡の内部に県を置いてそこに、中央から役人を派遣して統治すべきと主張します。役人は、任期制にして数年で変えて、地元と癒着しないようにして潜在的な王が出るのを防ぎ、すべての権力を皇帝が保有するようにして権力の集中を計るものでした。始皇帝は、これを採用し秦は史上初の中央集権の国になります。同時に、この体制は以後2000年、歴代の王朝が踏襲していきました。
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現在の日本だって李斯の考えを受け継いでいる
現在の日本だって王政ではありませんが、中央から役人を派遣して、地方の行政を担わせている点は中央集権制です。李斯の考えた政治システムは断片的に日本にも影響を与えているのです。
李斯、始皇帝の死により己を見失う
紀元前210年、始皇帝は中国に君臨する事11年で死去します。それは巡幸中の出来事でした。遺言では、長子の扶蘇(ふそ)に皇帝を継げとされていましたが、これは李斯にとって都合が悪い事でした。
何故なら、扶蘇は李斯が推進した言論弾圧、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)に反対した人物だったからです。もし、扶蘇が皇帝になれば、自分は罷免、悪ければ誅殺されると李斯は恐れます。
そして、宦官趙高(ちょうこう)の「遺言書を偽造して、末子の胡亥(こがい)に皇位を継がせる」という陰謀に乗ってしまったのです。李斯は早まったというしかありません、この選択は、保身しか頭にない趙高を増長させて、秦を崩壊に導くカウントダウンだったからです。
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李斯、自分の浅墓さを悔みながら斬殺される
李斯は、趙高をただの保身に長けた宦官としか思っていませんでしたが、趙高は、李斯の想像の上を行きました。胡亥を皇帝につけた趙高は、郎中令に就任して宮廷の一切の仕事を取り仕切り、誰であっても趙高の了解なしに皇帝には面会できません。これでは幾ら、李斯が皇帝に諫言しようとしても不可能です。さらに、趙高は嘘の情報で胡亥を安心させていたので、李斯が持ってくる緊急の情報を胡亥は理解出来ませんでした。
その最中でも趙高は、自分に逆らいそうな人間を逮捕させて、罪をでっちあげ、殺すという事を機械的に繰り返します。その犠牲者は数万人と言われ、秦を支えた名将や文官は、あらかた始末されました。
やがて趙高は、諫言を繰り返す李斯が邪魔になり、でっち上げの罪を着せて李斯を拷問に掛けました。老齢で衰えていた李斯は拷問に耐えかねて嘘の自白をし、腰を境に体を真っ二つに斬る腰斬という刑を受けます。
李斯「わしが浅墓であった、このままでは万人の血と汗で築いた秦が滅ぶ」
李斯は、己の判断の浅墓さを悔みながら、一族郎党と共に、刑場の露と消えてしまいました。
三国志ライターkawausoの独り言
李斯は、先見の明もあり、官吏としても優秀で、言論弾圧や、同窓生である韓非を殺した点などを除いても、中央集権制を確立して皇帝権力の強化を図るなど、中国の政治システムの発展に多大な功績を残しました。最後に趙高に加担するという愚策さえなければ、秦も短期間で滅びもしなかったでしょう。千年続く不朽の帝国を夢見ながら、最後の最期で自分の保身を選んだ事が、李斯の最初にして最大の失敗でした。
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—熱き『キングダム』の原点がココに—