楊醜と言って、すぐに誰か分かる人はかなり少ないかも知れません。
彼は、三国志の初期に活躍した并州の軍閥、張楊の配下として登場します。
西暦199年(198年説もあり)楊醜は呂布を支援していたボス張楊を殺しその軍勢を奪って曹操に降伏しようとします。
しかし、主君を殺され逆上した同僚の眭固によって殺害されてしまいその野望はあえなく潰えてしまいました。
ここまで聞くと、楊醜は普通の小悪党ですが史書における楊醜は、それ以上の分別がない悪人風味になっています。
どうして、こうなってしまったのでしょうか?
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この記事の目次
史書の楊醜は善人の主君を殺した極悪人?
さて、この楊醜についての史書の記録は三国志魏志張楊伝の以下の一文です。
楊素與呂布善 太祖之圍布 楊欲救之 不能 乃出兵東市 遙為之勢 其將楊醜 殺楊以應太祖
簡単に説明すると張楊は呂布と仲が良く、呂布が曹操に包囲されているのを知ると、これを救おうとしたが果たせず、
東市という所まで兵を出して救う構えを見せた。
張楊の部下の楊醜は、張楊を殺して曹操に内応しようとしたと書かれています。
その後、張楊の部下の眭固が、激怒して楊醜を殺害、兵を引き継いで袁紹に付こうとし、曹操が派遣した史渙と于禁に攻められ敗死したと続きます。
これだけ見ると、楊醜は野心逞しい男で、善人の主君を自分の欲の為に殺しそれを咎めた眭固に殺されただけの人に見えます。
でも、よくよく調べてみると、どうも楊醜はそこまでの極悪人とも言えないようなのです。
漢の忠臣と見られる張楊も実際は・・
楊醜が殺害した張楊は、正史三国志魏志にちゃんと伝が立っています。
その理由については、後で述べるとして簡単な略歴を紹介しましょう。
張楊は并州に生まれ武勇に優れたので、取り立てられ武猛従事になっています。
その後、霊帝が個人的な近衛軍団、西園軍を組織する為に天下の豪傑を招集した時、同郷の上司丁原が張楊に兵を率いらせて、
西園軍の上将蹇碩の下に派遣。張楊は仮司馬に任命されます。
やがて、霊帝が死に蹇碩が何進に殺されると、張楊は何進の命令で并州に戻り兵を集めて上党に留まり山賊退治などをしています。
何進が殺されると、張楊は反董卓の旗を鮮明にし上党太守を壷関に攻めるも落とす事が出来ず周辺の城を略奪してまわり、
手勢を数千まで増やしました。やっているのは、李傕や郭汜と変わらない山賊行為です。
袁紹を盟主に反董卓連合軍が起き河内まで進むと張楊は袁紹と手を組みます。
そこには、匈奴単于の於夫羅がいて張楊に「袁紹なんかと組まないで俺と組もうぜ」と持ち掛け張楊が断ります。
すると於夫羅は張楊を拉致して去りました。
袁紹は将軍の麹義に命じて鄴南で於夫羅を討ちこれを破ります。
ところが張楊はその後も、於夫羅と行動を共にし度遼将軍の耿祉の軍勢を撃破して勢力を盛り返しました。
その後、李傕・郭汜政権は、張楊を建義将軍・河内太守に任命しています。
こうしてみると、張楊が明確な目的などなく行き当たりばったりで、付く相手をコロコロと変えている事がハッキリします。
楊醜の出自は不明ですが、こういう人についているのですから、并州か幽州の遊牧民の気質を濃厚に受けた人物で、
呂布と同様の価値観の人だと推測できます。
張楊が善人扱いされるのは、献帝を助けたから
では、どうして張楊は尊皇心に厚い善人のような評価があるのか?
それは、河内太守の頃に、洛陽に逃れてきた無一文の献帝に対し食糧を用意したり、洛陽の宮殿を修理したりしたからです。
例えば、孫堅が自分と反りが合わない南陽太守を殺すなど、かなり凶暴な事をしているのに、焼けた洛陽を整備したりしたお陰で
帝の忠臣のような扱いを受けているのと同じです。
曹魏は一応禅譲により後漢の献帝から天命を引き継いでいる形であり西晋も、そんな曹魏から禅譲で王朝を継いでいる建前なので
後漢に貢献した人は大事にします。なので史書は張楊を悪く書く事が出来ないのです。
正史に伝が残るのも、献帝を敬った忠臣という部分が大きいでしょう。
この正史フィルターを外した張楊は呂布とそんなに変わるものではありません。
楊醜の張楊殺害も、その目線に立たないと楊醜が身の程も弁えないDQN野郎にしか見えなくなり公平ではなくなる恐れがあります。
楊醜は張楊の兵力を乗っ取ろうとした
史実では張楊は呂布と仲が良く、呂布が曹操に下邳で包囲されると、助けようと思ったものの果たす事が出来ず、
せめてエールを送ろうと東市に兵を集めて支援の構えを見せたとあります。
でもこれ微妙なんですね、この東市って下邳から何百キロも離れた司隷河内郡野王というエリアにあって
徐州にいる呂布からすると影も形もみえないんです。
張楊に本当に呂布を救うという意識があったのか非常に疑問で、献帝を救う忠臣という張楊のイメージを補強すべく
史家が創作したでっち上げではないのでしょうか?
この時点で呂布の命運は絶望的で、袁術も零落していて華北の覇権は曹操と袁紹の二者に絞られていました。
実際の張楊は両者の間で日和見をしており、張楊に見切りをつけた曹操シンパの楊醜に斬られたというのが実相のように感じます。
つまり楊醜は弱肉強食の世界のならいで、張楊を斬って、その兵力を自分のものにして曹操に降ろうとしたと考えられるのです。
眭固と楊醜は張楊の兵を巡り内紛を起こしただけ
一方、楊醜を殺して主君の仇を討った正義の人眭固ですが、この眭固は元々、黒山賊の部将で于毒・白繞と共に10万の大軍で
東郡と魏郡を攻略して略奪を欲しいままにしています。
東郡太守の王肱はこれを鎮圧できず、曹操が要請を受けて飛び出し濮陽で白繞を討って乱を鎮圧しました。
その後、眭固は張楊の部下になるわけですがつまりはならず者です。
ただ、過去の経緯から反曹の人ではあり、その意味で楊醜とは正反対でした。
両者の命運を分けたのは、恐らく統率力でしょう。
楊醜は、張楊の兵力を纏めて曹操に降ろうとし、それに眭固が反対、張楊の残党は眭固に与してしまい、楊醜は殺害されたのです。
つまりは敵討ちは二の次であり、実相は張楊死後の覇権争いで楊醜は負けて眭固は勝った、それだけの話だったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
実質は呂布と変わらない遊牧民倫理で乱世を戦い抜いた張楊ですが、その生前に献帝を助けた事から尊皇の人とされ、ちょっと善人扱いでした。
楊醜は、その善人張楊を殺害して曹操に降ろうとした為に、描かれ方が主君を殺害して曹操に寝返ろうとした悪党と悪い方に補正が働いたのです。
kawausoは、そう思います。
参考文献:正史三国志 後漢書
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