諸葛瞻(しょかつせん)、字は思遠は諸葛亮の実子です。
227年生まれですので、諸葛亮が46歳の時の子となります。
『三国志演義』では黄夫人の子とされていますが、実際に母親が誰であったのかは伝わっていません。
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幼くして父と死別
諸葛亮は諸葛瞻が生まれた翌年の228年から5度の北伐を行った上に54歳で亡くなりますので、2人が関われた年月はあまり長くありませんでした。
諸葛亮の死亡後、幼くして父の「武郷侯」の爵位を継ぎます。
その頃の蜀軍の中枢は働き盛りの蒋琬や費禕、董允、姜維らが担っていました。
若い頃より重用されるけど
幼い頃より父からも「利発だけど早熟で将来大成しないんじゃないかと心配(何か諸葛一族の2代目にはこんなのばっかり…それとも親バカか)」と言われ、
また長じてからは頭が良いだけでなく書道や絵画といった文化にも通じるようになりました。
成人後は皇帝劉禅の娘を妻とし、若くして騎都尉、羽林中郎将に任じられ、尚書台(皇帝への上奏を取り次ぐ部署)の副官である尚書僕射など順調に出世し重用されましたが、
実際の功績よりも父親の絶大な名声、いずれ父のようになって欲しいという周囲の期待の方が大きかったようです。
諸葛瞻は出世するが功績は残していない
出世はするものの、諸葛瞻の伝には特に功績らしき事は残っていません。
そして姜維の北伐には反対の立場を取り、後の黄皓による宮廷での専横を止める事もできませんでした。
それどころか北伐司令官を姜維から閻宇という黄皓派の武将に交代させようともしていました。
演義の蜀滅亡時に描かれている「反戦派だった多くの文官達」の1人です。
しかし、その最期は敵国からも大いに讃えられるものでした。
綿竹で息子と共に討死
263年、魏による大規模な討伐が行われ蜀は滅亡します。
この戦いの時に諸葛瞻は、成都のすぐ北東にある綿竹に陣を構えました。
既に後退した後の布陣であり、攻めてくる魏の武将鄧艾の勢いは止められません。
綿竹が破られれば成都まであっという間です。
そんな状況の陣中に鄧艾より降伏勧告が届きます。
降伏するならば諸葛亮の故郷、琅邪の王にと上奏しようという内容でした。
これに怒った諸葛瞻は使者を切り、鄧艾と全面対決の姿勢をとります。
はじめは善戦するもののじきに鄧艾軍に大敗し、まだ18歳の息子諸葛尚や張飛の孫らと共に戦死しました。
37歳でした。
絶望的な状況でも降伏を良しとせず、国と命運を共にした姿勢が司馬炎から「信義を貫き通した」と賞賛されたり、
干宝(晋の官僚っで文人)や裴松之に「忠孝を尽くした」と評価されています。
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子孫は晋に仕える
諸葛瞻の息子にはもう一人、諸葛京、字は行宗が居ます。蜀滅亡時はまだ年少で(生没年は不明)戦場には出ていませんでした。
蜀が滅亡した翌年、諸葛瞻の義兄諸葛喬の孫の諸葛顕と共に河東郡(当時山西省辺りにあった郡)へ移された後、268年には陳寿らと共に晋に仕え、
県令として実績を積んだ後に江州(現在の江西省九江市の辺り)刺史となっています。
優秀な人物だったようです。
現在諸葛亮の後裔と名乗る一族は、この諸葛京から続くとされています。
三国志ライターの栂みつはの独り言
真偽のほどはさておき、もしも諸葛瞻が鄧艾に降って本当に取り立てられていたら、晋でのこうした繁栄はあったでしょうか?
まあ鄧艾は蜀滅亡後に鍾会のクーデターにより死んでしまいますので、これに巻き込まれた可能性は大いにありますが…。
蜀時代の軋轢から、陳寿の諸葛瞻評は中々厳しいものがあります。
そして諸葛瞻自身の事跡もあまり褒められたものではありませんでしたが、
もはや斜陽となった蜀で父親の威光の重圧を受けながら、国に殉じ父祖や子孫に恥を残さなかった最期には、やはり同世代の人々の胸を打つものであったのでしょう。
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