建安24年(219年)に関羽は曹仁を攻めますが、背後を孫権に突かれてピンチに陥ります。
関羽はすぐに、劉封と孟達に助けを求めました。劉封は劉備の養子です。だが2人は平定したばかりの土地であり、城を空にすることは危険であるから援軍を拒否。
客観的にみると正しい判断です。ところが拒否の結果、関羽は戦死。2人は劉備から莫大な恨みを買います。その後、孟達は魏(220年~265年)に逃走。劉封は処刑されました。ところで劉備はなぜ劉封を養子にしたのでしょうか?
今回は正史『三国志』をもとに劉備が劉封を養子にした理由について考察していきます。
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劉磐の甥
まず劉封が何者なのか説明します。正史によるとは劉封の本名は寇封であり、「長沙の劉氏」の甥と記載されています。劉封伝だけを読んでも、長沙の劉氏が誰かさっぱり分かりません。
長沙の劉氏は劉磐という人物です。彼は荊州の長官である劉表の一族。劉表配下でも勇猛な武将として知られており、孫策も彼に苦しめられました。
ただし孫策配下に太史慈が加入して以降は、ほとんど前線に出なくなったようです。太史慈の方が武力・統治能力のレベルが上だったからです。第一線から退いた劉磐はその後、長沙の統治を任せられていました。
上記のことから「長沙の劉氏」とは劉磐のことを指すと分かります。血筋は遠いですが劉封は劉表と親戚関係と分かります。
劉備と劉表の自称「漢王朝の末裔」
それでは劉備はなぜ劉封を養子にしたのでしょうか?劉備が劉封を養子にした正確な時期は不明ですが、養子に入った理由が劉備に後継ぎがいなかったことになっているので、劉禅が生まれる建安12年(207年)より前ということになります。しかし養子だったら部下の関羽・張飛・趙雲からもらえばよいはず。どうしてわざわざ、劉表の親戚をもらったのでしょうか?
私は劉備が自称していた漢王朝の末裔にあると思います。建安6年(201年)、曹操に敗北した劉備は劉表が統治している荊州に保護を求めます。
この時期から劉備は「漢王朝の末裔」というブランドを使用し始めますが、使っていたのは「中山靖王劉勝の末裔」ではありません。
劉備が自称していたのは、「臨邑侯劉復の末裔」でした。劉復は前漢(前202年~後8年)の長沙定王劉発を先祖とする人物です。面白いことに劉備は荊州に来るまでは漢王朝の末裔と自称した形跡は無いのですが、荊州亡命以後は、その件を公にしている形跡があります。いきなり出てきた末裔話を信じる人はいません。ところが不思議なことに、荊州の知識人の間では、これが当たり前のように認知されていました。なぜでしょうか?
謎を解くカギは劉表にあります。劉表が末裔と自称する「魯恭王劉余」という人物が劉発と兄弟関係だったのです。劉表も氏素性が不明な人物で有名ですが、上記の件が正しかったら、劉備と劉表はご先祖が兄弟関係なので、2人は血筋がかなり近いことになります。もちろん2人が主張している末裔が本当の場合ですけど・・・・・・
劉封を養子に!
当然、劉表というパトロンがいれば劉備の自称「漢王朝の末裔」は、世間にあっさりと通るはずです。だって2人ともウソをついているのですから・・・・・・
劉備の主張を更に強固にするために持ってきたのが養子作戦でした。確証は無いですが、劉備と劉表で考えたのでしょう。しかも劉備の先祖(自称)の土地である長沙から持ってくれば、バッチリ!
その白羽の矢が立った人物が、劉表の遠縁に当たる寇封。結局、彼に待ち受けているのは悲劇的な未来でした。劉備のブランド力アップのために使われて、劉封も可哀そう・・・・・・
三国志ライター 晃の独り言
劉表は劉備の力を警戒していたという史料が裴松之の注に残されていますが、これは後世の作り話と言われており、史料の信ぴょう性に関しては疑問視されています。
『三国志演義』の影響のせいなのか、劉表は凡人でダメな男というレッテルを貼られています。だが、私は間違ったことと思います。氏素性も分からない自称「漢王朝の末裔」の男が、地元の豪族・知識階級を手なずけて約20年も荊州を統治したのはスゴイです。もし劉備が彼の部下になっていたら、天下統一も夢ではなかったかもしれません。
※参考文献
・津田資久「劉備出自考」(『国士館人文学』3 2013年)
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