売国奴。国を売って利益を得る人を指します。中国で有名な売国奴は南宋(1127年~1279年)の宰相である秦檜です。
秦檜は敵対していた金(1115年~1234年)と密約を交わして、和議を結びました。その和議の結果、将軍の岳飛が犠牲になります。秦檜の売国奴話は後世の歴史家による脚色と言われており、今日では信用されていません。
ただし益州の劉璋に仕えていた張松・法正は主人を劉備に売った真の売国奴です。しかし、『三国志演義』の影響のために、それが感じにくいのです。今回は張松・法正の売国話について紹介します。
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この記事の目次
張松とは?
張松という人物は正史『三国志』・『後漢書』にも列伝は無しです。兄は張粛であり兄弟そろって益州長官の劉璋に仕えていました。
正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用している『益部耆旧雑記』によると、ブサイクだったことが記されています。ちなみに、兄の張粛はイケメンでした。
張松の仕事は別駕です。正式名称は別駕従事。別駕とは簡単に言えば家老。主人が領地を視察する時に別の駕籠でついていくから、別駕と呼ぶのです。だが、張松は主人の劉璋が大器でないと思い見限っていました。
劉璋の失政
益州は劉璋の父の劉焉が治めていましたが興平元年(194年)に劉焉は病死。息子の劉璋が後を継ぎます。
劉焉は生前、益州で布教していた宗教団体「五斗米道」の対応に苦労していました。五斗米道とは張角が創始した「太平道」に類似した団体でした。劉焉は五斗米道とは争わずに、平和的交渉を行っていました。
劉璋も父と同様の対応をするべきでしたが、五斗米道の総大将である張魯の母と弟を殺害して関係を悪化させます。
張松、曹操に派遣される
五斗米道に手を焼いた劉璋は曹操に助けを求めることにしました。そこで最初に張松の兄である張粛を派遣。益州が曹操に敵対しない姿勢を見せました。
喜んだ曹操は張粛を好漢郡の太守に任命します。ところが、別に張魯に対する援軍を送ることはありませんでした。建安13年(208年)に曹操は荊州の劉表が亡くなったことを機会に荊州を制圧。劉璋は再び使者を曹操に派遣します。
この時に派遣された使者が張松でした。おそらく張松はこの時、曹操に対して益州の情報を流す予定だったのでしょう。ちなみに『三国志演義』では建安16年(211年)に派遣されたことになっていますが、これは虚構です。物語を読みやすくするために創作したと考えられます。時系列が乱れていたら、読みにくいですからね・・・・・・
張松、劉備の所に行く!
話を正史に戻します。派遣された張松は残念なことに官位を1つも頂けずに帰ることになりました。当時の曹操は孫権との対決で忙しかったから、益州の田舎者の相手なんてしていられません。
雑に扱われた張松は「田舎なめるなよ!」と激怒!何もしないで帰るのも悔しいので、張松は長坂で曹操に敗北した劉備の所に行きました。当時の劉備は夏口に駐屯していたので、そこに向かったのでしょう。
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