曹操にもっとも愛された人物と言えば郭嘉でしょう。郭嘉が烏桓討伐から帰還した後に病気になると、曹操は何度も見舞いの使者を出しています。人材を愛した曹操でも、一人の人物にここまで傾倒したケースはありません。
では、どうして郭嘉はここまで曹操に愛されたのでしょうか?
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郭嘉には漢王朝イデオロギーがない
どうして曹操は、郭嘉を愛し重んじたのでしょうか?その大きな理由は郭嘉が漢朝復興とも儒教とも無縁なノンポリだったからです。例えば郭嘉は袁紹の配下の辛評と郭図に、袁紹は周公旦の形ばかりを真似て人に遜るのを浅ましいと切り捨てて仕官しない決断をしていますし袁紹の業を覇業と言っています。
郭嘉の事績には、どこにも漢王朝の3文字がなく漢王朝の衰亡を見てとり、注意深く人付き合いを限定して登用されないようにしています。逆に荀彧は孝廉に挙げられて守宮令を拝命していますから、まだ漢の臣の自負がありますが郭嘉にはありません。
最初に仕えたのが曹操、最後に在籍したのも曹操軍、そこに郭嘉の俺は曹操の臣という自負があります。この点に荀彧以上に郭嘉を愛した曹操の心情が見えるのです。
郭嘉登場後、荀彧は留守番が多くなる
荀彧が曹操に登用されるのは西暦191年で、曹操が袁紹配下で東郡太守だった時代でした。曹操は、荀彧を我が子房と激賞し、前漢の高祖劉邦の軍師だった張良になぞらえます。
その後の荀彧は兗州牧になった曹操の留守を守り、張邈と陳宮の反乱を乗り越え、その後呂布との抗争に勝利し、曹操に献帝奉戴を進言して実行させ曹操の地位を高めました。
他にも人材を登用して荀攸を見出して官渡の戦いで献策させ、鍾繇を見出して西の関中を抑えさせるなど非常に大きな活躍をします。そして、郭嘉もまた荀彧によって登用されるのですが、そのインパクトは荀彧以上でありついには曹操の片腕になっていき、荀彧が置いてけぼりになっていきます。
袁氏討伐に尽力
郭嘉の最初の手柄は、下邳に籠城した呂布を討った時でした。籠城が長引いたので、曹操の兵は疲労し曹操も引き上げを考え始めましたが、郭嘉は無理をしても呂布の息の根を止めるべしと進言。これに曹操は同調して呂布を捕らえる事に成功します。
その後、曹操が官渡で袁紹を破ると、遺児の袁譚・袁尚を黎陽に討つのに従い、連戦してしばしば勝利します。諸将は勢いづいて、一挙に袁尚と袁譚を討とうとしますが郭嘉は押しとどめ、強く攻めると二人は協力するのでしばらく放置するように主張。
それで、荊州を攻めていると圧力が軽減された袁尚と袁譚は再び争いを激化させて潰し合いました。かくして郭嘉は官渡以来の策謀に関与し袁譚を死に追いやり、袁尚と袁煕は、さらに北の遼東に向かって逃げていきます。この間、荀彧は許で留守番していて外征には出ていません。常に曹操に付き従う軍師は郭嘉と荀攸の2人になっていました。
運命の烏桓討伐
ここで、曹操に究極の選択が訪れます。荊州の劉表か北の袁兄弟、どちらを先に討伐するかの問題が出てきたのです。しかし、群臣の意見は圧倒的に袁家は落ち目でオワコンだから先に荊州を討てでした。三国志武帝紀によるとこの時に袁兄弟の討伐を主張したのは郭嘉だけだったようです。つまり、荀彧や荀攸も反対だったのでしょう。
郭嘉は、「袁紹は北の異民族に恩徳を与えていて、彼らはその恩義に報いようとしているので、曹操が荊州に向かった場合、袁尚と袁煕を担ぎ、隙を突いて攻め込んでくるリスクが高いとし、逆に荊州は劉表が劉備を信じてなく、仮に劉備が曹操を攻めるように進言しても動かないので脅威ではないというのです。
悩んだ末に曹操は、大方の反対意見を覆し郭嘉の提案を採用して北方遠征を決定し、郭嘉は病弱ながら従軍、軽騎兵のみを率いた電撃戦で、食料と水不足に苦しみつつも白狼山の戦いで烏桓族を討ち、さらに北に逃げた、袁尚と袁煕も公孫康に討たれました。その間、荊州の劉表はピクリともせず、郭嘉の目論見は的中します。
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