一介の武将でありながら神格化されるほど高い人気を誇る関羽。その死後から信仰する人がいたとも言われていますが、近代に近づくにつれて信仰は厚くなり、為政者たちからも諡号がどんどん贈られていきました。
そのため、尊称なども含めると関羽の異名は50以上あります(ちょっとした表記の違いも含めると100を超えるかも)。今回はその中からいくつかをピックアップし、意味や背景の解説をしていこうと思います。
この記事の目次
身体的特徴からの異名・美髯公
関羽の異名の代表格といえば「美髯公」ですね。これは三国志演義において関羽が献帝に謁見した際に、その美しいヒゲを褒められたことから定着しました。
正史では「髯どの」となっていて、関羽が諸葛亮に馬超の評価を尋ねた際に
「馬超の才覚は張飛に並ぶほどですが、髯どの(関羽)には及びません」と答えています。
余談ですが、ヒゲという漢字は3つあり「髭(口ひげ)」「鬚(あごひげ)」「髯(ほおひげ)」に分かれます。その中から「髯」という字を使っているということは、あごだけでなく頬からヒゲが伸びていたのでしょう。
中国人はヒゲの薄い人も比較的多かったようなので、頬からキレイなヒゲが伸びていれば注目の的だったのかもしれませんね。
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仏教における関羽の神号
関羽は死後に神格化され、儒教・仏教・道教という中国の三大宗教それぞれで神様として崇められるようになりました。その中でも最も早期に関羽を神格化したと言われているのが仏教で、隋の煬帝によって「伽藍神伽藍菩薩)」に封じられています。
伽藍神は寺院を守る守護神という意味(護法神とも言う)。これは隋代の僧侶・智禅師の前に関羽が現れ、仏法に帰依させてほしいと言ったことがきっかけで、そこから伽藍神として祀られるようになりました。
しかし、伽藍神を祀る習俗ができたのは唐や宋の時代で、隋以前はそうした習俗はなかったようです。そのため正確な時期は不明ですが、南宋時代に編纂された佛祖統紀という書物で前述の智禅師が関羽と出会うストーリーが出てくることから北宋かそれよりも以前に仏教の神様として定着していたのでしょう。
後年、仏教徒の間では「蓋天古佛」という名称で親しまれるようになります。
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儒教における関羽の神号
関羽が正式に儒教における神様となったのは清代に入ってからです。清はもともと関帝を信仰していたため、中華統一を果たした後にゴリ押しで関羽信仰を広めています。乾隆帝の時代には「武聖」と「山西関夫子」の諡号を贈っていますが、
これは儒教の始祖・孔子の尊称である「文聖」や「山東夫子」と対にした形です。これによって関羽は孔子と同格になりました。ちなみに「武」という文字が入っていますが、これは孔子の「文」と対になるよう配慮したためで、実際には学業成就など学問関連の神様として祀られています。
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道教における関羽の神号
関羽は唐代あたりまではあまり良いイメージがなかったようで、書物によっては鬼将(悪鬼)として描かれることもありました。そんなイメージが払拭され始めたのは、仏教の伽藍神としての信仰が広まりだした北宋時代前後からです。
明代に入ると三国志演義などの小説が広まったことで義の人として人気が集まり、道教においても正式に神様になりました。
以下は歴代皇帝が関羽に贈った諡号です。
- 14代万暦帝「協天護国忠義大帝」及び「三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君」
- 16代天啓帝 「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」
- 17代崇禎帝「真元顯應召明翼(翊)漢天尊」
この中で特に注目すべきは万暦帝の「三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君」でしょう。ここでやっと関聖帝君となるわけです。清代に入ると追贈の数も多くなり、光緒帝に至っては26文字にも及ぶ長大な諡号を贈っています。
- 3代順治帝 「忠義神武関聖大帝」
- 6代乾隆帝 「忠義神武霊佑関聖大帝」
- 7代嘉慶帝「忠義神武霊佑仁勇関聖大帝」
- 8代道光帝 「忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝」
- 9代咸豊帝 「忠義神武霊佑仁勇威顕護国保民精誠綏靖関聖大帝」
- 11代光緒帝「忠義神武霊佑仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊讃宣徳関聖大帝」
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