魏の五虎将軍筆頭と言えば張遼です。呂布の配下時代に曹操に降伏して以来、官渡の戦いや合肥の戦いで戦功を立て続け、特に呉キラーとして遼来(張遼が来た!)と恐れられました。
しかし、そんな張遼、最期は過労死していた疑いがあるってご存知ですか?
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曹丕に気に入られたのが不幸の始まり
張遼は、関羽が樊城の曹仁を包囲していた際、救援に向かい曹操に厚く遇されました。
曹操の死後、曹丕が王に即位すると張遼は前将軍になり、孫権が叛くと合肥に駐屯させて備えとします。そして曹丕は、張遼ばかりでなく、張遼の母にいたるまで厚遇しました。例えば、張遼の母に輿を与えて移動させ、管轄の将と吏は道端に並んで拝礼し、これを栄誉とするほどです。
曹丕は文帝として即位すると、張遼を晋陽侯とし食邑千戸を増して合計二千六百戸としました。下にも置かない厚遇ぶりですが、曹丕の厚遇レベルは次第に度を越していきました。
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昔の手柄で恩賞与えすぎな曹丕
黄初二年(221年)張遼は洛陽宮に入朝します。曹丕は、待ちかねたように張遼の手を引いて建始殿で接見し、第二次合肥の戦いで張遼が呉を打ち破った状況を聞きました。
張遼の武勇伝を聞き終えた曹丕は感動し、深々と溜息をついて左右の重臣を見て
「張遼は古の召虎と言ってもいいんじゃね」と言います。
そして、張遼の為に御殿を建て、さらに張遼の母の為にも御殿を建てたばかりか、張遼が合肥で決死隊として募った兵士800人を全て近衛兵の虎賁へと引き上げました。
しかし、あまりにも厚遇が過ぎると思いませんか?
張遼がその後も次々手柄を立てたならともかく、6年前の手柄で大盤振る舞いし過ぎだと感じます。それは張遼も感じていたようで、重圧から逃れるべく、期待に応えようと老骨に鞭を打ち頑張るようになりました。
病気の張遼に気を遣わす曹丕
黄初二年、孫権がまた独立して魏に叛き、張遼は雍丘に還屯します。この戦いの最中に張遼は病を発症しました。
さあ大変!
曹丕は張遼の病を聞くと、侍中の劉曄に太医を率いさせて病状を健診させます。この時、取り立てられ中央にいた虎賁は、元上司張遼の病を聞き、太医に病状を尋ねる為に道路に群がったそうで、張遼がいかに部下に慕われていたか分かります。
曹丕は、もっと高度な医療を受けさせようと、張遼を自分がいる土地まで移動させ、その後は、馬車で親しく往来して張遼の手を取り、衣服を与え、太官に特別食を送らせました。
張遼の病は、押し付けがましい曹丕の手厚い看護で多少良くなりますが、完全に治る前に張遼は現場に復帰しました。はい、段々不穏な空気になってきました。
張遼が完全に治ってから見舞いにいけばいいのに、曹丕は自分の所在地に病人の張遼を移動させた上で、自ら馬車で押しかけ、
「大丈夫?大丈夫?、朕に出来る事があれば何でも言って!」等と言いながら、衣服を与えたり特別な栄養食を送り届け激励の押し付けをしています。
こうまでされては、張遼も完全に治るまで休んでもいられず、
「もう治りました。大丈夫です」と現場復帰するしかなくなるでしょう。
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病気で無理して過労死する張遼
そして、張遼病み上がりの最悪タイミングで再び孫権が叛きます。曹丕は躊躇なく張遼を派遣、自身は船に乗り曹休と海陵に至って長江に臨みました。
孫権は張遼の姿を見て恐れ
「張遼は病んでいるとはいえ、当たってはならん慎むように」と命令します。
同年、張遼は諸将と協力して呉の将軍、呂範を破ります。しかし、無理が祟ったのか張遼は病が重くなり、とうとう江都で死去しました。曹丕はボロ泣きして剛侯と諡して名将の死を惜しみます。
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