曹操の養子である何晏、皆さんは何晏についてどのような人物とお考えでしょうか。何晏は当時の文学などを見ていくと外せない人物でもあるため、良く目にする名前です。しかし人によっては心底受け付けない、そんな人物でもあることと思います。
今回はそんな何晏について、少しお話いたしましょう。
大将軍の孫・何晏
さてまず何晏の経歴から。実はその祖父はあの十常時に殺された将軍、何進。残念ながら父親の名前は分かっていませんが、母親は尹氏です。この尹氏が曹操のお妾さんになり、子の何晏は曹操の養子となりました。言ってしまうと連れ子として引き取られて養子となったのです。
が、同じ養子だった秦朗が常に控えめにしていたのに対して何晏は派手な装いに身を包み、実子のような振る舞いをしていたために曹丕からは嫌われていてわざわざ「養子」と呼ばれていたと言います。
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閑職から出世する何晏
曹丕に嫌われていた何晏は当然のように出世は望めず、曹丕の後継者となった曹叡の時代になってもそれは変わらないままでした。しかし曹叡の死後、時の権力を握ったのは曹爽(筆者、ここで歯を噛みしめる)
曹爽と親しかった何晏はここで出世。何晏からすればようやく日の目が向いたとも言えますが、曹爽の取り巻きとして出世した何晏は周囲から非難の目も向けられることとなります。
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栄華続かず何晏
しかしその日の目はすぐに沈みました。それは249年の正月のこと。司馬懿のクーデターによって曹爽らは処刑されました。もちろん曹爽の取り巻きたちもその一味として尽く処刑されることになります。
最早命運尽きた……となる中で、不思議な役目が何晏に回ってきました。何晏は司馬懿によって、曹爽一派を裁判するようにと申し付けられるのです。
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最悪と言って良い最期を迎える何晏
本来ならば自分も曹爽らと早々に(爆笑ポイント)処刑される立場。しかし不思議なことに司馬懿からはそんな曹爽一派の裁判を命じられた何晏。何晏はここで助かりたい一心で、曹爽一派の取り巻き七名の名前を書きだして、その裁判をかなり厳しく執り行いました。
そんな何晏に司馬懿は声をかけます。
「名前が一人足りないのではないか」
「それは私の名前ですか」
これに司馬懿は頷き、何晏もまた処断されてその生涯は終わることになります。
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学者としての姿
最期の最期で、ある意味仲間を売るという最悪の姿を記録されることになった何晏ですが、後世ではその名をよく見かけることとなります。とうのもこの何晏、論語の注釈書である論語集解を記し、老荘思想の学問である玄学を興すなど数多くの文学、思想面での働きを残しているからです。なので三国志時代の文学思想を調べていると、この何晏の学者としての偉業を垣間見ることができます。
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