三国志演義では神がかり的な頭脳で、劉備を蜀の皇帝にまで導いていく諸葛亮ですが、その最後は北伐の最中に病気で陣没するというもの。
しかも劉備の意思を継いで北伐を5度行っていますが、決定打を与えるには至らず、大きな成果は残せないままこの世を去りました。
そのため、北伐は蜀の国力を削っただけ、諸葛亮や姜維ら北伐推進派のリーダーは蜀の滅亡を早めたという批判もあります。しかし、北伐は漢王朝の復興を目指すものではなく、蜀が生き残る唯一の道だったとすればどうでしょうか。
今回は諸葛亮が目指した北伐の目的を考察していきます。
諸葛亮は劉備の意思を継いだのか?
諸葛亮が上表した出師表には、亡き劉備への恩に報い、悲願であった漢王朝の復興を果たすために出兵する旨が書かれています。しかし、諸葛亮が当初劉備に授けた戦略は、益州と荊州を領有することが前提。
しかし、関羽の死とともに荊州を、夷陵での敗退で多くの将兵を失ったことで、もともとプランを実行することは不可能となりました。諸葛亮にもそれはわかっていたでしょう。
そうなると、北伐はただのポーズだったとか、劉備への恩返しで無謀と知りながらも戦った可能性も出てくるのですが、筆者が考えるのは蜀の滅亡を防ぐために北伐を行ったという可能性です。
関連記事:劉禅を泣かせた出師の表のこぼれ話
無謀な北伐の理由
諸葛亮の思考の中には「戦わずして勝つ」や「信賞必罰」といった孫子の兵法を基軸としたものがあります。そう考えると北伐も同様に「攻撃は最大の防御なり」という教えを取り入れていたと考えても不思議ではありません。
つまり、毎年のように繰り返し魏領に侵攻することで、逆に蜀へ侵攻されることを防いだということです。
遠征によって蜀は国力を削りましたが、それは攻められる魏も同様。特に魏は蜀だけでなく、呉からも侵攻を受けていますし、自国内ではクーデターや謀反も起きていました。
魏に絶えず戦争をさせていれば人心も乱れて反乱も起きますし、多くの物資を消費させることで、魏は蜀一国に対して大きな兵を動かすことが難しくなります。
関連記事:孫子兵法をそのまま会社で活用するとブラック企業になる?
蜀の滅亡は魏が国力を蓄えたため
劉禅が魏に降伏する前年の262年に姜維は最後の北伐を行いました。
その前に北伐を行ったのは諸葛誕の反乱に乗じた257年から258年にかけて、間に4年の空白期間があるわけですが、これは北伐反対派の批判によって北伐を中断せざるを得なかったからです。
そして、その4年の間に力をつけた魏は蜀へと侵攻し、一気に攻め滅ぼしてしまいました。
諸葛亮の死から姜維が軍権を掌握するまでには一定の時間が空いていて、蔣琬や費禕は漢中にこそ駐留していましたが、北伐は行っていない事も事実です。
しかし、その間にも呉が魏に攻め込んだことや、公孫淵の反乱や司馬家と曹家の権力争いなどゴタゴタがありました。
そういった期間と北伐での牽制が蜀を守っていたわけですが、北伐ができなくなり、さらに呉もこの時期に孫亮がクーデターで廃位されるなど政変が起きて、魏に対する軍事行動ができなくなると魏は一気に力をつけてしまったのです。
もちろん、蜀もその間に休息ができたわけですが、蔣琬や費禕、董允らに続く良い政治家が輩出されず、さらに大国と小国の自力の差が出たことで、国力が大きく開いてしまったことが蜀滅亡のきっかけとなりました。
関連記事:蔣琬と費禕の二人がいなければ三国志の歴史が大きく変わっていた!?
魏は機会を伺っていた
蜀から度々侵攻を受けていた魏ですが、諸葛亮の北伐開始以降に魏が蜀へ侵攻したのは全部で3回。
1度目は曹真が大司馬となった後、2度目は大将軍の蔣琬が病気で漢中から兵を引いた際、3度目は前述した4年の空白期間の後です。1度目は大きな権力を持った曹真の進言によって出兵したわけですが、天候不良もあって撤退。
2度目は曹真の子である曹爽が自らの権力を示すために蜀へ進軍します。この時は父の失敗を反省してか、蔣琬が病気で漢中から兵を引き上げた際に攻撃をしかけましたが、王平によって阻まれました。
この2つの例を見てもわかるように、国力的に魏はいつでも蜀に侵攻できたはずですが、行軍の難しさや天候不順、天然の要害という地理的に不利な点があることから、確実に勝てる機会を伺ったように思います。
そして最後となった3度目では、蜀の国力が衰えたことを契機に侵攻を開始。この時も進軍は困難を極めますが、4年という休息期間を経て魏には余力があったのか、鄧艾が強引な進軍で蜀の奥深くまで到達し蜀を滅ぼしました。
関連記事:司馬昭の父である司馬懿の政敵 曹爽たちはどんな政策だったの?
関連記事:太傅・司馬懿と曹爽の権力抗争「正始の政変」とは具体的にどんな争いだったの?
【次のページに続きます】