三国志における北伐はいくつかありますが、特にイメージが大きいものだと諸葛亮と姜維が魏に対して行ったものが挙げられるでしょう。
ただ、呉の孫権も度々北伐を行っていて、諸葛亮と姜維が行った10度以上の北伐に比べるとそれなりの成果を上げていると言えます。しかし、それでも魏の基盤を揺るがすには至りませんでした。今回は蜀の北伐が無謀なものだったのか、それとも多少は見込みがあったのかを考察していこうと思います。
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呉の勝率
呉は魏から攻め込まれた時の防衛率は比較的高いですが、自ら北伐をした時は負けが目立ちます。北伐は揚州と荊州で二面や三面で戦っているので正確な勝率はわかりませんが、少なくとも蜀の北伐よりは明らかな戦果を上げています。
例えば、濡須口の戦いでは皖城を落としていますし、236年(呉主伝では234年)に孫権が陸遜と諸葛瑾に襄陽へ侵攻させた際には、撤退すると見せかけて江夏を急襲し、魏軍に数千という被害を出させ、その後は多くの民を呉に帰順させています。
また、北伐と呼べるかは微妙ですが、魏軍に数万という被害をもたらした石亭の戦いなど、いずれも数千から数万の敵兵力を削り、いくつかの城を落としています。しかし、大国である魏からすれば、その損害はわずかなものでしかありませんでした。
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三国の人口と兵力
蜀と呉が何度攻め込んでも根幹を揺るがすことができなかった魏ですが、三国の国力を人口と兵力から見ていきましょう。
計測している年代は違いますが、通典という書物によると
魏は260年時点で人口が約440万人(約66万戸)
蜀は263年時点で約94万人(28万戸)
呉は280年時点で約230万人(53万戸)
となっています。
兵力については上記と同じ年で、蜀10万人呉23万人
魏の詳細はわかりませんが、他の二国が人口の約10%の兵を抱えていたことや『三国食貨志』という書物では、魏の最盛期の兵力が67万だったと記載されていることから滅亡時にも40万から45万程度の兵力は有していたはずです。
つまり、魏は少なく見積もっても蜀と呉を合わせた以上の兵力を有していたことになりますし、それ以外の人口が経済面などを支えていることを考えると、多少戦に負けた程度では痛くも痒くもなかったことでしょう。
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益州の支配管理は難しい
蜀は10万の兵に加えて、官吏が4万人いたと言われていて、人口の15%近くが軍事関係という非常に偏った構成でした。呉の官吏は3万2千人だったので、蜀は人口比率から考えても異常なほど官吏が多いと言えます。
蜀は南中のような元異民族の支配圏を領有していたので、しっかりと統制を取るためにはそれだけ官吏の数も必要だったのかもしれません。つまり、人口や兵力、将の不足だけでなく反乱を抑えながら戦費の捻出をするのに大きな労力を使う非常に不利な立地で戦っていたということです。
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呉の強兵策
呉は領地の大半に流れる水路と強力な水軍をうまく活用し、兵や物資の補給を行っていますし、その他にも反乱を繰り返す山越族を討伐しては民を自領へ移住させ、屈強な者を兵として軍に組み入れていました。
他にも倭国や現在の台湾、海南地方にも遠征をして、兵力を集めようとしたとも言われていて、人口や兵力の増加に積極だったことがわかります。ただ、裏を返せば呉もそれだけ急場を迎えていたということ。
前述した人口と戸数の割合から考えると魏は1戸あたり6人ほどなのに対し、蜀と呉は約4人と明らかに少ないです。これは度重なる戦乱で戸籍から漏れた人も多いと言われている一方、後漢時代の人口が約5647万人だったのに対し、晋の統一時期には約1616万人と激減していることから、それだけ消耗の激しい時代だったということであり、蜀も呉もギリギリのところで戦っていたということでしょう。
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