広告

再評価の声もあるが・・・劉禅のがっかりエピソード


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

劉禅

 

三国志」において暗愚の象徴される蜀の皇帝劉禅(りゅうぜん)」。そんな劉禅も40年間は弱小国を守ったことから、再評価の機運もあります。そもそも劉禅の「暗愚」「無能」というイメージはどこから来たのでしょうか?

 

劉禅

 

今回の記事ではそんな劉禅のがっかりエピソードをまとめてみました。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



劉禅、皇帝になるまで

阿斗を劉備まで届ける趙雲

 

劉禅は西暦207年に生まれました。翌年の曹操(そうそう)との戦いで劉禅母子は劉備とはぐれ、命の危機にさらされますが、趙雲の働きによって救い出され、無事に生還します。

 

劉禅と孔明

 

劉備が益州(えきしゅう)と漢中を手に入れ「漢中」と名乗ると、劉備の後継ぎとして太子になります。223年に父劉備が死去すると、跡を継ぎ蜀の皇帝として即位します。このとき劉禅は若干17歳でした。その後は諸葛亮(しょかつりょう)にすべてを任せて国政を運営することになります。

 

関連記事:【子供は親のコピー】劉備の阿斗投げを容認する儒教の驚きの論理

関連記事:【投げたらあかん!】阿斗を趙雲がキャッチする三国志ドラマがある

関連記事:【教えて中国朋友!】劉備が阿斗を投げたのはどうして?

 

趙雲

 

 

 

劉禅の残念な逸話1:後宮の女性を増やそうとした

劉禅と結婚する敬哀皇后

 

劉禅は美しい女性を選び、後宮(妃が住まう場所)を増員、充実させようとしました。

 

 

これを阻止したのが「董允(とういん)」でした。董允は諸葛亮から指名され、劉禅のお目付け役をしていた人物です。

 

董允 はじめての三国志

 

彼は「古来の天子の妃が12人を超えたことはありません。また、費用も掛かります。」と後宮の増員を拒否しています。劉禅は12人以上の妃をもとうとしていた、という事ですね。

 

関連記事:【衝撃の事実】董允がいたからこそ蜀は滅亡から逃れた!

関連記事:董允(とういん)ってどんな人?蜀の黄門様、劉禅の甘えを許さず!

 

劉禅の残念な逸話2:無能な宦官を信頼してしまった

孔明が亡くなり好き放題やる黄皓

 

諸葛亮の死後、蔣琬(しょうえん)そして費禕(ひい)が国政を握りましたが、彼らが存命中は蜀は安定していました。しかし、彼らの死後劉禅は「黄皓(こうこう)」という宦官を信用してしまいます。

 

怪しい巫女のい占いを信じる黄皓

 

黄皓は劉禅に好き勝手にさせることによって政治から遠ざけ、国家の政治を混乱させました。劉禅は贅沢におぼれるようになってしまい、国庫も危機に瀕しました。

 

関連記事:【新解釈】黄皓の専横を招いたのは実は劉備では?

関連記事:悪臣で有名な黄皓は「無能」ではなかった

 

黄皓

 

 

劉禅の残念な逸話3:家臣たちの対立を制御できない

黄皓

 

先述した黄皓は自分の意に反するものをことごとく排除しようとしていました。特に軍事を司る「姜維(きょうい)」とは対立し、黄皓は姜維の軍事権をはく奪しようとし、姜維は黄皓を殺すように劉禅に上奏したりしました。

 

劉禅に気に入られる黄皓

 

もし優秀な上司であれば、家臣が対立していてもうまい具合に収めるものですが、劉禅は黄皓の肩を常に持ち、姜維のアドバイスも握りつぶしました。しかも姜維に対し、黄皓に謝罪するように言ったといいます。姜維は都にいることが出来なくなり、ますます軍事と内政が混乱します。

 

関連記事:諸葛瞻の評価は如何ほどでありますか?黄皓派だった諸葛亮の息子

関連記事:黄皓の最期を振り返る!本当に蜀を滅亡に追い込んだのか?

 

佞臣

 

 

劉禅の残念な逸話4:援軍の要請もためらう

蜀の姜維

 

蜀の国の混乱を知った魏は263年、ついに蜀の攻略に乗り出しました。蜀の防衛ラインにいた姜維はこれを察知し、何度も援軍の要請をします。しかし、ここで邪魔をしていたのはまたしても宦官の黄皓でした。

 

巫女に神頼みをする劉禅

 

彼は占い師に占わせたところ、「魏の軍勢は来ない」という占い結果が出たのです。黄皓はこれを信じ、劉禅に援軍を送らないように言いました。劉禅も確かめればよい物を、これを信じ、援軍を送りませんでした。これにより蜀の防衛体制の構築は遅れ、結果的に蜀は滅亡してしまう事になります。

 

関連記事:姜維の悲願達成なるか!北伐の戦績は?

関連記事:姜維と趙雲その人気は「三国志演義」のおかげ?正史との違いに迫る

 

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

-劉禅
-,