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司馬懿の息子は司馬師・司馬昭以外どうして変人・悪人バカだらけなの?


 

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司馬師と司馬懿

 

司馬懿(しばい)は実質的に(しん)王朝の礎を築いた人物とされます。

 

年を取った司馬懿

 

それは、司馬懿が高平陵(こうへいりょう)の変を起こして曹爽一派を追放して誅殺し事実上、魏王朝を乗っ取ったからですが、そんな司馬懿はクーデターから2年後には死去しました。

 

司馬懿と司馬師

 

通常なら、ここから司馬氏が没落しそうですがこれを阻止したのは司馬懿の2人の息子、司馬師(しばし)司馬昭(しばしょう)の存在が大きいでしょう。

 

 

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でも、司馬懿の優秀な息子って、司馬師と司馬昭以外、あまり聞きませんよね?

 

kawausoさん

 

というよりも、それ以外の息子は変人、悪人、バカばっかりな気がします。同じ司馬懿の子なのに、どうしてこんなに違うのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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司馬懿の9人の子は4夫人との間に誕生している

仲の悪かった張春華と司馬懿

 

司馬懿は、男子9名、女子2名に恵まれましたが、男子については正室の張春華(ちょうしゅんか)以外にも、(はく)夫人、(ふく)夫人、張夫人という3名の側室にも産ませています。

 

簡単にグラフにすると、

 

生母 官位・爵位
張春華 司馬師 大将軍
司馬昭
司馬榦(しばかん) 平原王
伏夫人  司馬亮(しばりょう) 汝南文成王
 司馬伷(しばちゅう) 琅邪(ろうや)武王
司馬京(しばけい) 清恵亭侯
 司馬駿(しばしゅん) 扶風(ふふう)武王
張夫人  司馬肜(しばゆう) 梁孝王
柏夫人  司馬倫(しばりん) 趙王

 

こんな並びになり、以外にも司馬懿は、張春華との間の子より伏夫人との間の子供の方が多い事が分かります。

 

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賢母として有名だった伏夫人

孫夫人

 

司馬懿との間に4人の男子を成した伏夫人ですが、彼女は賢母として有名であり4人の子供達に慕われていました。

 

長男である司馬亮は、母の伏夫人が軽い病気になった時、洛水(らくすい)にある祭祀に出向いてお祓いをし、また弟2人と共に持節(じせつ)鼓吹(こすい)を携え常に(そば)(はべ)って世話をしたので、なんと親孝行な兄弟たちである事かと洛水一帯で徳望が知れ渡ったそうです。

 

司馬炎に臆さず意見を言う司馬冏は斉王となる

 

また、司馬炎も凌雲台(りょううんだい)に昇って司馬亮が親孝行に励んでいる様子を遠望して「伏夫人が富貴(ふうき)であるのは、こういう理由であったか」と喜んだとか…では、そんな賢母伏夫人の4人の子供について簡単に見てみましょう。

 

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八王の乱

 

決断力と勇気に欠けた司馬亮

司馬亮

 

司馬亮は、司馬懿の3男で晋の宗室の重臣として司馬炎の信頼が厚かったものの、決断力がなく諸葛誕の乱や禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)の乱で失敗します。呉の西陵督(せいりょうとく)歩闡(ほせん)が西陵城ごと西晋へ降伏した時、身柄を確保しに向かうが陸抗に先手を打たれ歩闡を殺害された失敗もあります。

 

司馬亮暗殺も企みる楊駿

 

司馬炎の死後、楊俊(ようしゅん)が外戚として権力を握ると楊駿を恐れ対決せず許昌に逃れました。

 

楊駿たちを誅殺する賈南風

 

その後、楊駿が賈南風に排除されると恵帝の(みことのり)太宰(たいさい)録尚書事(ろくしょうしょじ)となり、官位の大盤振る舞いなど人気取りの政策に終始しますが、乱暴者で知られた司馬瑋を排除しようとした結果、賈南風と司馬瑋が手を組んで司馬亮を襲撃。ろくろく抵抗もできないまま殺害されました。

 

司馬亮を気遣って兵士たちが扇で仰ぐ

 

これでは、どう見ても有能とは言い難い人生だと思います。

 

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親の七光りで昇進した司馬伷

司馬朗

 

司馬伷は、司馬懿の4男、南安亭侯、東武郷侯から散騎常侍、右将軍、監兗州諸軍事(かんえんしゅうしょぐんじ)、兗州刺史、征虜将軍(せいりょしょうぐん)に昇進し仮節を与えられます。しかし、西暦260年に魏帝曹髦が挙兵して司馬昭を討とうとした時に進軍を阻止しようとして一喝され退散したとされます。(漢晋春秋)

 

普に降参する孫皓

 

279年から呉討伐に出陣して功績を挙げ孫皓(そんこう)の降伏を受け入れます。呉征伐で大将軍の位を得ますが、283年に57歳で死去。親の七光り以外、あまり活躍したとは言えない生涯でした。

 

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若くして死去した司馬京

病気になった兵士

 

司馬京は、司馬懿の5男、魏末に清恵亭侯に封じられるものの24歳で没。射声校尉を追贈されました。

 

諫言が容れられず悲観して死んだ司馬駿

司馬攸は宿所で血を吐いて38歳で亡くなる

 

司馬駿は、司馬懿の6男、239年に6歳で曹芳の即位の記念として散騎常侍侍講(さんきじょうじ・じこう)となり、以後は各州都督を歴任。西晋が建国すると扶風王に封じられ征西将軍として関中を守備。異民族の反乱鎮圧で晋朝に貢献します。

 

武帝、司馬炎が弟の司馬攸を封国に追い出そうとした際に武帝を諫めたが聞き入れられず西暦286年失意の内に発病し54歳で死んだとされます。学問を好み封国で善政を敷いたので死後に各地に碑が建立されました。

 

内容に納得がいかないkawauso様

 

こうしてみると、伏夫人の4人の息子は悪党やバカはいないものの、親の七光り以上の実力を持つ人材はなく、晋王朝を支える存在にはなれなかったようです。

 

しかし、伏夫人の息子達は、ここから紹介する2名に比べれば人畜無害でした。

 

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無能な風見鶏、司馬肜

田豊

 

司馬肜は司馬懿の8男で、生母は張夫人です。西暦291年に征西将軍に昇進し秦王司馬柬(しばかん)に代わって都督関中諸軍事となり、その後召喚を受けて衛将軍、録尚書事になり、中央政界にも参加しました。

 

読み書きのできない司馬倫

 

294年、公平さに欠け、度々異民族の反乱を招いて更迭(こうてつ)された司馬倫に代わって関中を守備。296年8月、秦州・雍州の氐・羌は氐人の斉万年を皇帝に推戴して自立。司馬肜は夏侯駿(かこうしゅん)と共に周処(しゅうしょ)盧播(ろはん)らを統率して斉万年討伐に当たりますが、過去に周処に糾弾された恨みから無理な作戦に従わせて周処を死に追いやります。

 

斉万年は周処を破って勢いづき司馬肜は連敗、朝廷より叱責を受け積弩(せきど)将軍孟観(もうかん)が討伐軍の総大将に選ばれ、ようやく斉万年を捕らえました。

 

漢帝国の宿敵で匈奴の名君(匈奴族)

 

西暦300年4月3日、司馬肜は司馬倫と共に恵帝から密詔を受けたと称し、皇后賈南風(かなんぷう)を廃位して平民に落とします。

 

嫉妬狂う賈南風

 

その後、司馬肜は、司馬倫の政権下で活躍しますが、301年、斉王司馬冏らが政変を起こして司馬倫が倒されると、すぐに司馬冏(しばけい)につき、司馬倫父子を誅殺するように上書しました。

 

司馬倫討伐を目論む司馬冏

 

302年司馬肜は、上手く乱世を泳いで世を去ります。清廉潔白で公正、謙虚で慎ましい人柄で無能とされますが、無能以外は何一つ当たっているとは思えません。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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