司馬懿は実質的に晋王朝の礎を築いた人物とされます。
それは、司馬懿が高平陵の変を起こして曹爽一派を追放して誅殺し事実上、魏王朝を乗っ取ったからですが、そんな司馬懿はクーデターから2年後には死去しました。
通常なら、ここから司馬氏が没落しそうですがこれを阻止したのは司馬懿の2人の息子、司馬師と司馬昭の存在が大きいでしょう。
でも、司馬懿の優秀な息子って、司馬師と司馬昭以外、あまり聞きませんよね?
というよりも、それ以外の息子は変人、悪人、バカばっかりな気がします。同じ司馬懿の子なのに、どうしてこんなに違うのでしょうか?
この記事の目次
司馬懿の9人の子は4夫人との間に誕生している
司馬懿は、男子9名、女子2名に恵まれましたが、男子については正室の張春華以外にも、柏夫人、伏夫人、張夫人という3名の側室にも産ませています。
簡単にグラフにすると、
| 生母 | 子 | 官位・爵位 |
| 張春華 | 司馬師 | 大将軍 |
| 司馬昭 | 晋王 | |
| 司馬榦 | 平原王 | |
| 伏夫人 | 司馬亮 | 汝南文成王 |
| 司馬伷 | 琅邪武王 | |
| 司馬京 | 清恵亭侯 | |
| 司馬駿 | 扶風武王 | |
| 張夫人 | 司馬肜 | 梁孝王 |
| 柏夫人 | 司馬倫 | 趙王 |
こんな並びになり、以外にも司馬懿は、張春華との間の子より伏夫人との間の子供の方が多い事が分かります。
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賢母として有名だった伏夫人
司馬懿との間に4人の男子を成した伏夫人ですが、彼女は賢母として有名であり4人の子供達に慕われていました。
長男である司馬亮は、母の伏夫人が軽い病気になった時、洛水にある祭祀に出向いてお祓いをし、また弟2人と共に持節と鼓吹を携え常に傍に侍って世話をしたので、なんと親孝行な兄弟たちである事かと洛水一帯で徳望が知れ渡ったそうです。
また、司馬炎も凌雲台に昇って司馬亮が親孝行に励んでいる様子を遠望して「伏夫人が富貴であるのは、こういう理由であったか」と喜んだとか…では、そんな賢母伏夫人の4人の子供について簡単に見てみましょう。
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決断力と勇気に欠けた司馬亮
司馬亮は、司馬懿の3男で晋の宗室の重臣として司馬炎の信頼が厚かったものの、決断力がなく諸葛誕の乱や禿髪樹機能の乱で失敗します。呉の西陵督歩闡が西陵城ごと西晋へ降伏した時、身柄を確保しに向かうが陸抗に先手を打たれ歩闡を殺害された失敗もあります。
司馬炎の死後、楊俊が外戚として権力を握ると楊駿を恐れ対決せず許昌に逃れました。
その後、楊駿が賈南風に排除されると恵帝の詔で太宰・録尚書事となり、官位の大盤振る舞いなど人気取りの政策に終始しますが、乱暴者で知られた司馬瑋を排除しようとした結果、賈南風と司馬瑋が手を組んで司馬亮を襲撃。ろくろく抵抗もできないまま殺害されました。
これでは、どう見ても有能とは言い難い人生だと思います。
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親の七光りで昇進した司馬伷
司馬伷は、司馬懿の4男、南安亭侯、東武郷侯から散騎常侍、右将軍、監兗州諸軍事、兗州刺史、征虜将軍に昇進し仮節を与えられます。しかし、西暦260年に魏帝曹髦が挙兵して司馬昭を討とうとした時に進軍を阻止しようとして一喝され退散したとされます。(漢晋春秋)
279年から呉討伐に出陣して功績を挙げ孫皓の降伏を受け入れます。呉征伐で大将軍の位を得ますが、283年に57歳で死去。親の七光り以外、あまり活躍したとは言えない生涯でした。
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若くして死去した司馬京
司馬京は、司馬懿の5男、魏末に清恵亭侯に封じられるものの24歳で没。射声校尉を追贈されました。
諫言が容れられず悲観して死んだ司馬駿
司馬駿は、司馬懿の6男、239年に6歳で曹芳の即位の記念として散騎常侍侍講となり、以後は各州都督を歴任。西晋が建国すると扶風王に封じられ征西将軍として関中を守備。異民族の反乱鎮圧で晋朝に貢献します。
武帝、司馬炎が弟の司馬攸を封国に追い出そうとした際に武帝を諫めたが聞き入れられず西暦286年失意の内に発病し54歳で死んだとされます。学問を好み封国で善政を敷いたので死後に各地に碑が建立されました。
こうしてみると、伏夫人の4人の息子は悪党やバカはいないものの、親の七光り以上の実力を持つ人材はなく、晋王朝を支える存在にはなれなかったようです。
しかし、伏夫人の息子達は、ここから紹介する2名に比べれば人畜無害でした。
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無能な風見鶏、司馬肜
司馬肜は司馬懿の8男で、生母は張夫人です。西暦291年に征西将軍に昇進し秦王司馬柬に代わって都督関中諸軍事となり、その後召喚を受けて衛将軍、録尚書事になり、中央政界にも参加しました。
294年、公平さに欠け、度々異民族の反乱を招いて更迭された司馬倫に代わって関中を守備。296年8月、秦州・雍州の氐・羌は氐人の斉万年を皇帝に推戴して自立。司馬肜は夏侯駿と共に周処、盧播らを統率して斉万年討伐に当たりますが、過去に周処に糾弾された恨みから無理な作戦に従わせて周処を死に追いやります。
斉万年は周処を破って勢いづき司馬肜は連敗、朝廷より叱責を受け積弩将軍孟観が討伐軍の総大将に選ばれ、ようやく斉万年を捕らえました。
西暦300年4月3日、司馬肜は司馬倫と共に恵帝から密詔を受けたと称し、皇后賈南風を廃位して平民に落とします。
その後、司馬肜は、司馬倫の政権下で活躍しますが、301年、斉王司馬冏らが政変を起こして司馬倫が倒されると、すぐに司馬冏につき、司馬倫父子を誅殺するように上書しました。
302年司馬肜は、上手く乱世を泳いで世を去ります。清廉潔白で公正、謙虚で慎ましい人柄で無能とされますが、無能以外は何一つ当たっているとは思えません。
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最強バカ簒奪者、司馬倫
司馬倫は司馬懿の9男にして末っ子で母は柏夫人でした。
西暦265年に甥の司馬炎が西晋を建国すると琅邪王に封じられます。しかし、司馬倫は正真正銘のDQNであり、学問しなかったので書物も読めず国政を取り仕切る能力が著しく欠けていました。それ以前にモラルがなく、皇帝司馬炎の衣服を盗もうとして発覚し、司馬炎の温情で見逃されたりしています。
294年には関中の守備を命じられますが、刑罰が不公平で氐、羌、匈奴の反乱を招きます。司馬倫は討伐に向かいますがアホなので軍備も整えられずクビになり司馬肜と交替。
DQN司馬倫ですが、側近孫秀の助言は素直に聞き、皇后賈南風に取り入り賈南風が英明な皇太子司馬遹を排除しようと企むのを聞き、賈南風を唆して司馬遹を殺害させます。
その後、司馬倫は挙兵し賈南風一派を皇太子殺しの罪で排除する事に成功しました。
司馬倫の独裁に対し、司馬氏の強力な諸侯王、斉王司馬冏、成都王司馬穎、河間王司馬顒の三王が挙兵。孫秀と司馬倫は兵を出してこれを何とか阻止します。中央権力を掌握した司馬倫に淮南王司馬允が蜂起しますが司馬倫は鎮圧。これを契機に自分に敵対する勢力を冤罪で皆殺しにしました。
司馬倫は、301年恵帝から帝位を奪って皇帝を僭称しますが、あまりの暴政に左衛将軍王輿と尚書広陵公司馬漼は司馬倫排斥を目論み700人余りの兵を率いて宮中に入り孫秀等側近を殺害。司馬倫を捕らえ金屑酒を飲ませて自殺させました。
司馬倫は最後まで自分の非を認めず、孫秀が朕を誤らせたと言い続けていたそうです。
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奇行のお陰で天寿を全う司馬榦
司馬榦は司馬懿の7男で生母は張春華、司馬師、司馬昭の同母弟です。
西暦265年に甥の司馬炎が晋を建国すると平原王となりますが、司馬榦は性格が純粋にすぎて精神に障害があるとの事で地方に行かずに特例で洛陽に留まります。その後も司馬榦は順調に昇進して序列は三公に次ぎますが、司馬榦は自ら政務を執る事はなく、ただ有為の人材を抜擢していました。
司馬榦は、精神性と考えられる奇行が多く、爵位や俸禄はゴミのような扱いで、秩禄や布帛は庭に山積みにして腐らせ人が来てもなかなか合おうとしません。また、愛妾が死ぬと棺に入れるものの釘は打たず、まるで生きているかのようにウヒョし、遺体が腐敗しはじめると初めて葬りました。
今で言うネクロフィリアですが、他人との対応は穏やかで、まるで落ち度がなかったそうです。司馬氏が八王の乱で衰弱すると世捨て人のようになり、屋敷に閉じこもり権力者とは誰とも会わなくなりました。
世人は司馬榦がオカしくなったとして憐れんだので、洛陽で目まぐるしく政権が動いても司馬榦を害するものは出現しませんでした。その事もあり西暦311年、80歳まで長生きし天寿を全うしています。
司馬榦は無能ではないものの精神疾患から、晋の時代にはほとんど活躍する事が出来ませんでした。
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司馬懿の息子ワーストは?
まとめてみると司馬懿と張春華の間に生まれた。司馬師、司馬昭、司馬榦は少なくとも無能ではないと言えます。
一方で、司馬懿と伏夫人の間に生まれた。司馬亮、司馬伷、司馬京、司馬駿は人柄は良かったものの無能か、早死にで晋王朝の安定には、あまり貢献していないでしょう。
司馬懿と張夫人との間に生まれた司馬肜は、史書に無能と書かれる人物であり、清廉で公平というのも気に入らない部下を戦争で死に追いやるのを見ると怪しく、最後には風見鶏となって、権力を握った諸侯王に迎合するなどとても評価できません。
そして、司馬懿と柏夫人の間に生まれた司馬倫は、満場一致のウルトラバカで司馬懿の息子でも最悪の1人。三王挙兵からクーデターで自殺を強いられるまでに、10万人規模で人が巻き添えで死んでいるので、司馬懿の息子ワーストと言えます。
本当の原因は宗族を甘やかした司馬炎!
こうしてみると、司馬懿の末っ子の司馬倫こそが最悪のDQNですが司馬倫以外にも、とんでもないDQNが掃いて捨てる程、司馬氏には出てきます。
その大きな原因は司馬炎が、司馬氏の宗族を重用しながら西暦275年に司馬亮を監視・取り締まり役に任命するまで、宗族を野放しにしていた事でした。天下の支配者である司馬氏に生まれ、この世の贅沢を極めながらその行動を誰も注意しないとなれば、どれだけ才能があろうと歪んでしまうに決まっています。
また、監督した司馬倫もあまり人を御する才能が無さそうな人物であり、宗族の増長は止む事が無かったと考えられます。これこそ時代が経過するにつれ、司馬氏にDQNが続出する理由でしょうね。
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三国志ライターkawausoの独り言
司馬炎が曹丕の半分でも司馬一族に厳しい目を向けて、その制御を図っていれば、次々とDQNが続出して暴れ回り、八王の乱が起きる事もなかったでしょう。人間はやっぱり子供時代の教育が大事ですね。
参考文献:晋書
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