三国志において、弓の名手として知られる武将は何人か登場します。代表的なのは呂布や黄忠ですが、実は知られざる弓の名手として有名なのが呉の太史慈です。
今回はそんな太史慈の弓に関するエピソードをご紹介したいと思います。なお、今回の記事の内容は基本的に正史三国志に基づいています。
若いころの太史慈
太史慈は青州東莱郡の出身で、若いころは地元で役人をしていました。そんな時、郡と州がもめる事件があり、太史慈は郡の使者として洛陽に派遣されます。
洛陽に派遣された太史慈は、州の使者を出し抜いて郡に有利な裁定を引き出しますが、これに州の政府は激怒し、太史慈は青州に住めなくなってしまいます。
そこで、太史慈は幽州遼東郡に逃れるのですが、この時に残された太史慈の母の面倒を見たのが、孔子の子孫として有名な孔融でした。孔融は北海郡の太守でしたが、その後、北海郡が賊に攻められ、孔融の居城も包囲されるという事件が起こります。そこで、今回ご紹介する最初のエピソードが登場するのです。
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太史慈の計略
当時、恩人の孔融の下に身を寄せていた太史慈は、孔融に非常に恩義を感じており、恩人の孔融の危機を救うべく立ち上がります。そこで、太史慈は敵の包囲を潜り抜けて援軍を要請することを計画しますが、敵の包囲は厳重であり、突破は困難でした。
そこで、太史慈は弓を使って一計を案じます。ある朝、太史慈は突如城門を開いて一人城外に出ます。これを見て敵軍は大いに驚きますが、太史慈は何食わぬ顔で弓を構え、弓の練習を始めました。そして、ひとしきり矢を放つと再び城内に帰っていきます。翌朝も、さらにその翌朝も太史慈は同じように城外に出て弓の練習をします。
初めは驚いていた敵軍も、太史慈の弓の練習が何日も続いているのを見ると次第に驚かなくなり太史慈のことを気にも留めなくなります。しかしこれこそが、太史慈の狙いだったのです。自分への敵軍の注意が薄れたのを見た太史慈は、一気に城門を飛び出して敵の包囲を突破し、平原郡の劉備の下に援軍を要請します。
当代きっての名士として名高い孔融から直々に援軍を要請された劉備は大喜びし、3千の兵を太史慈に預け、救援に赴かせます。劉備からの援軍が到着したことで敵軍は逃げ出し、孔融の危機は救われたのでした。
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賊の腕を射抜く太史慈
太史慈は、陳寿の『三国志』の中で、「猿臂善射,弦不虛發」(猿のように腕が長く、弓の弦を引けば的を外すことがない)と述べられているように、その弓の腕前は文字通り百発百中でした。
そんな太史慈の優れた弓術を示すエピソードがあります。
太史慈は孔融の危機を救ったのち、揚州の劉繇に仕え、劉繇が孫策に敗れた後は孫策に仕えます。太史慈は孫策に仕えていた時、孫策と共に「麻保賊」なる盗賊を討伐しに出かけます。この時、敵は砦に籠っており、賊の大将は櫓の上に登り、孫策を罵倒します。
これを見た太史慈は弓をつがえると一気に矢を放ち、敵将がつかんでいた櫓の梁ごと敵将の腕を射抜いてしまいます。これには孫策軍の諸将も手を打って太史慈の弓の腕前を賞賛したといいます。
このエピソードは太史慈の弓の優れた腕前を示すのみならず、「貫手著棼」(手を貫いて梁に縫い付ける)という弓矢の上手な様をしめす中国の故事成語にもなっているほどです。
『三国志演義』では、弓の名手として名高い黄忠が関羽の兜の緒を弓で射貫くエピソードがありますが、太史慈はそんな黄忠にも匹敵するほどの弓の腕前なのですね。
さらには、黄忠のエピソードは『三国志演義』、すなわち史実を基にした物語に収録されているのに対し、太史慈のエピソードは正史三国志、すなわち公式な歴史書に書かれているということは特筆に値するでしょう。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。三国志の武将の中で、弓と言えば呂布や黄忠が有名ですが、意外なことに太史慈もまた弓の名手だったのですね。
そしてその腕前は、正史を著した陳寿がわざわざそのエピソードを『三国志』に盛り込むほどであり、正史三国志が書かれた晋の時代にはすでに人々に知れ渡っており、後には弓の上手な様を表す故事成語にまでなっているのですね。
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