馬超と言えば錦馬超とも言われたイケメンであり、武勇に優れた北部の雄。
悪漢、曹操に理不尽にも一族を奪われ、その復讐に立ち上がるも運命の悪戯か上手く行かず、流浪の果てに正義の使徒は仁徳の人、劉備と出会い、居場所を手に入れ……というとかなり三国志演義の補正が強すぎでしょうか。
実際には結構やりたい放題というか、暴れん坊な印象が強い馬超ですが……そんな馬超を別の武将ととりかへばや(トレード)するならどうなる? 馬超とりかへばや、考えてみましょうか。
この記事の目次
本当は因果応報な馬超
馬超は正史三国志と三国志演義ではだいぶ印象が違う武将の一人です。まず三国志演義では曹操に一族を殺されて立ち上がりますが、正史ではこれが逆転……というか、三国志演義が正史とは逆転していると言った方が良いでしょうか。
まず色々あって馬超の父、馬騰が入朝。曹操が張魯に攻撃。涼州に残っていた馬超、次はこっちを攻撃されると不安。
韓遂と手を組んで曹操と戦う。敗北。一族が曹操に殺される。
これが正史の流れです。
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その後も度々反乱を起こすがいいとこなし
その後、馬超は羌族を率いて群雄割拠の時代らしく隴上で蜂起。そこで冀城の涼州刺史が降伏したにも関わらず、一族殺害。この際にその部下たちをそのまま配下に加え入れたために、後に反乱を起こされます。最終的に血で血を洗うようなお互いの親族殺し合いが行われ、馬超は張魯の所に落ち延びました。
この後、張魯の部下たちと上手く行かず、結局劉備の所まで行くことになりました。
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馬岱と共に劉備の世話になる
さて劉備の元に行った馬超、劉備には厚遇されたとされていますが、その後はどうしていたかは分かりません。漢中でも戦いの記録はありますが目立った活躍はなく、最終的には劉備が皇帝になって蜀漢を建国後に驃騎将軍となり、47歳で亡くなりました。
因みに臨終の際に「一族は曹操にだいたい殺されたけど従弟の馬岱がいるのでよろしくお願いします」と劉備に頼んでおり、三国志演義ではこの馬岱がこの後かなり活躍(そして苦労する)ことになるのも有名ですね。
こういった経緯は三国志演義では省かれたり、脚色されたりとされており、馬超は三国志演義の中でもかなり演義恩恵を受けている存在と言えるでしょう。そんな馬超をとりかへばやしてみるなら……どうなるでしょうか?
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部下で魏に降伏した龐徳と交換
龐徳は馬超の父、馬騰配下でしたが、馬超の配下となり、馬超が張魯の元に行った際に取り残されたか離れたかあるなどの紆余曲折を経てから曹操配下になりました。
ホウ徳自身もその活躍は少ないものの、曹操配下として最期に関羽との奮戦、その潔くも壮絶な最期から正史に記録され、三国志演義でも描写されていることは皆さまご存知の通り。馬超がもしホウ徳のように張魯の元に留まり、なんやかんやで曹操の配下となれば、もしかしたら、もしかしたら壮絶な最期を迎えられたかもしれません。
ホウ徳もホウ徳で蜀では取り立てられ、もしかしたら夷陵の戦いなどでも奮戦する姿が見られたのではないでしょうか。ほんの少しですれ違った運命の二人のとりかへばやの結末、見てみたいですね。
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主君を変えた似たモノ同士の張郃とトレード
色々あってやってきた武将、ということで張コウと馬超のとりかへばやは如何でしょう?張コウは劉備も恐れた名将、じっくりと、しかし慎重に戦いを進めるかの武将は蜀でもいぶし銀な活躍を見せてくれることでしょう。
劉備も馬超までとは行かずも、厄介な張コウが仲間になってくれれば喜ぶのではないでしょうか!
逆に馬超はどうでしょうか……うーん挙げては見たものの張コウとはタイプが違いすぎますからね……
ただ生き残れれば曹真や司馬懿が上手く使うと思いますし、ホウ徳と一緒に関羽と壮絶に戦う最期を迎える可能性も生まれ、正史のような寂しめの最期ではなくなるかと思います。
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