三国志には三国それぞれの「書」があり、各国の名高い人物たちの歴史を読み取ることができます。
その中でも圧巻の人数を誇るのが魏書。そして魏書の中には曹操の親族、部下のみならず、袁紹や曹操が打ち破った強敵たちも入っているのです。今回はそんな曹操が打ち破った強敵たちの中から、漢中を治めていた人物、張魯についてお話したいと思います。
この記事の目次
三国志演義の張魯は強欲で器量が狭い人
まずは少しばかり趣向を変えて、三国志演義の法の張魯を紹介しましょう。三国志演義の張魯は五斗米道という宗教の教祖でありながら、強欲であり、益州へ手を伸ばそうとしたりするなど、かなり暴君よりの人間として描かれています。
また馬超を庇護下に置いていたものの、三国志演義オリジナル武将で佞臣と名高い楊松が買収されたことで馬超とは不和になり、馬超はそのまま劉備の元に。
後に曹操が侵攻してきた際には、病気で馬超についていけなかったホウ徳を使うも、やっぱり楊松が曹操に買収されてホウ徳は仕方なく曹操の元に(ちょっと前に見た展開)と、佞臣のことばかり聞き入れて優秀な武将である馬超やホウ徳から離反されるという人物となっています。
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正史補正で宝物を焼かず曹操に許される
そして馬超は既に劉備の元に、それから頼みの綱だったホウ徳は現在交戦中の曹操の元に。こうして戦うための戦力を失うことになってしまった張魯は、逃亡を図ります。ここで一般的な逃亡というと、逃げる側が相手に何も渡さないように宝物庫などに火をかけて行くのですが、張魯はこれらを封印してから逃亡を図ったのがちょっと違う所です。
その後に曹操に降伏することになるのですが、曹操は張魯を高く評価して鎮南将軍に任じられました。
因みに楊松は君主を売った人物として処刑されてしまいます……すっきり!
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正史の張魯は劉焉から独立し漢中を奪ったやり手
では三国志の張魯を見ていきましょう。張魯の祖父は五斗米道という道教の開祖であり、あの時代に120歳以上まで生きていたと言われる最早仙人のような人でした。
その後は張魯の父が、そしてその後を張魯が引き継いでいたのですが、これに目を付けたのが益州の劉焉です。劉焉は宗教団体である五斗米道を取り込むことで、勢力を伸ばそうと企んだのです。が、その一方で張魯の美しい母親も劉焉に取り入り、親密になったためか劉焉自身から張魯は督義司馬に任命されることに。
その後、劉焉に漢中を攻めるように命じられた張魯、これを見事落とすと共に漢中を落とした張脩を襲い、兵を奪って漢中での独立を行います。劉焉の後継の劉璋はこれに怒り、張魯の家族を処刑、何度も漢中を取り戻そうとするも張魯を破れないままでした。
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【北伐の真実に迫る】
漢中を立派に治めた張魯
さて三国志演義の張魯と言えば強欲な人物でしたが、三国志の張魯は漢中で人心を掴みます。五斗米道を使って。
五斗米道は誠実がモットーという教えであり、人を欺くなどの行為を禁止し、慈善活動に勤しんだため、漢中では張魯と五斗米道は深く受け入れられ、これから20年もの間、張魯は漢中を良く治めることになります。
また三国志演義では自ら漢寧王になろうとしましたが、正史では周囲に進められるも、配下から諫められて張魯はこれを取りやめているという謙虚っぷり。
後に、馬超の反乱で多くの民が張魯を頼るほど逃げ延びてきて、馬超自身も受け入れるも、娘を嫁がせようとした際に「馬超は人となりに問題がある(ちょっと意訳)」という、結構まっとうな意見からこれを取りやめ、後に馬超は出奔、ホウ徳らは馬超と袂を別つことになりました。
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曹操に降伏し鎮南将軍に任じられる
215年、ついに曹操がやってきます。初めは張魯は降伏をしようとするも弟がこれに反対、しかし曹操に打ち破られ、また降伏しようとしたところで「降伏するにしてもまずは態勢を整えてから」という意見を出され、撤退を決意。
この際に国庫を焼き払うという意見が出ましたが張魯は「これは国(漢王朝)のものである」と焼くことはなく、これを知った曹操は張魯に感服。曹操は降伏した張魯に鎮南将軍の地位を与えてもてなし、また張魯が亡くなった後も五斗米道は名前を変えて現在も残っているのです。
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激動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志』
馬超の出奔は張魯のせいではない
ここで少し触れておきたいのが馬超の離反の一件。三国志演義の張魯は馬超もホウ徳も信用できずに離反されてしまいましたが、三国志ではそんなことはありません。実際には張魯と馬超というよりも張魯の配下たちと馬超の折り合いが悪く、馬超が飛び出した……という経緯のようです。
三国志演義では改編されているものの、これはそのままでは馬超の行動が仁義に欠けるように見えてしまうということもあってのことと思われます。
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成功した宗教家にして政治家張魯
そんな張魯は実際には漢中を良く治めていました。そこに住む人々が張魯と五斗米道の支配を望んでいたこともあり、漢王朝自体も介入できなかったのほどです。これは少なくとも、そこに住む人々たちからすれば張魯は名君であったということでしょう。
後漢末期、黄巾賊のように宗教を基盤とする者たち、また妖術が使えると言われた者たちは何人もいましたが、張魯はその宗教を基盤として、成功した人物です。宗教家であり、政治家でもあった人物、それも同時に上手くやっていた、ある種の成功者でした。これは正史でこそ分かる張魯の姿なので、ぜひ皆さんにも知って欲しいですね。
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三国志ライター センのひとりごと
三国志はその名の通り、三国の話。しかし三国が揃うまでに数多の英雄たちが志半ばで脱落していきました。そしてその三国も、最後には全て脱落していきます。
ですが五斗米道は姿を変えて、残り続けました。三国志の国々は既に亡くなりましたが、五斗米道は形を変えて残ったというのが面白いですね。こういう歴史の一幕、現代に繋がる一幕はどこか心惹かれます。三国志演義ではちょっとあんまりな扱いの張魯ですが、歴史の中で生き残った一人として……覚えて頂ければ幸いです。
ちゃぽーん。
参考文献:魏書張魯伝 武帝紀 蜀書劉二牧伝
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