三国志に注を付けた裴松之、皆さんもご存知のことと思います。割と信ぴょう性の低い話でも載せてしまう方ではありますが、この注釈の面白さもまた三国志の華だと筆者は思っております。
さてそんな裴松之先生ですが、大の賈詡嫌いであったことは周知の事実。しかし、実は同じくらい嫌っていた人物がいることはご存知でしょうか。その人物こそ陸遜なのですが、今回はこの裴松之先生の陸遜嫌いについて考えてみたいと思います。
この記事の目次
賈詡が大嫌いな裴松之
裴松之先生と言えば賈ク先生、と巷で言われているかは分かりませんが、裴松之先生は賈クを批判しまくりです。批判する時に筆が走ってしまうのはもしかしたら古今東西津々浦々、皆一緒なのかもしれませんが……注釈が見ていて笑いが漏れてくるほどです。
まぁ賈クは主を良く変えているので、そういう人物が嫌いだった可能性もあるでしょう。諸葛亮や審配が大好きなのはそういうタイプが好きだったから……とも言えると思うのですが。
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陸親子も嫌いな裴松之
では陸遜、陸抗親子に付いてはどうでしょうか。裴松之先生は二人のやったことを挙げては悪行と言い、尽くお怒りモードです。果てには「こんな悪いことやってるから孫の代で一族が絶えるんだよ!」とまで言っております。陸遜も陸抗も主君に最期まで仕えたと言って良い人物。裴松之先生がそこまで陸親子を嫌った理由はどこにあるのでしょうか?
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裴松之がこれだけ嫌っている理由の答えは晋の時代に?
その答えを追うために、晋の時代まで下がっていってみましょう。陸遜は既に、二宮の変が起こった際に憤死したと言われています。この際に陸遜が受けた疑惑については、息子である陸抗が晴らしました。そして陸抗は父と同じく、呉に仕えることとなります。
この辺りは晋の羊コとは敵味方でありながら友誼を通じるなど、中々有名な所ですね。ただし陸抗自体は、呉の時代で病により命を落とすこととなるのでした。
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子の時代、孫の時代
陸抗が亡くなった後は、その子供たち、陸遜からすれば孫たちが後を継いでいくことになります。とは言え、既に呉は斜陽の時代を迎えていました。そして280年、晋による呉の征伐が行われます。
この戦争の際に、陸抗の息子の陸晏と陸景は戦死することになります。しかしその兄弟である陸機、陸雲は生き残り、晋に仕えることになりました。この陸機、陸雲がキーポイントとなると思われます。
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