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三国志演義の劉備のモデル「劉虞」正真正銘プリンスなのに演義に登場しない理由は?

2022年6月13日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし呂布と劉備

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)劉備(りゅうび)は仁徳の人であることがクローズアップされ、かなり主人公風と言うか、時に人が良すぎてイライラしちゃうこともあったりなかったり。

 

しかし実際の劉備は確かに人を惹きつける魅力がありますが、乱世を生き残ってきただけの目のよさ、覚悟を決める時は覚悟を決めて行動できる人物だと思います。

 

二刀流の劉備

 

さてこの三国志演義の劉備のキャラクター付けなのですが……実はモデルがいた?

今回はそのモデルとなった可能性がある、劉虞(りゅうぐ)についてお話しましょう。

 

 

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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由緒正しい光武帝の長男の末裔「劉虞」

民衆に慕われる劉虞

 

さて劉虞という名前から分かるように、劉虞は漢王朝の末裔の一人です。それも結構はっきりとしており、光武帝(こうぶてい)の長男の末裔であり、祖父も父もその血筋に違えず、良い地位に付いていました。

 

土いじりをする劉備

 

劉備が漢王朝の末裔の一人とは言うものの実は良く分かっていない中で、劉虞は割ときちんとした宗室(そうしつ)の末裔、というのが面白い(?)所でしょうか。

 

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公孫瓚特集

 

 

 

戦争を出来るだけ回避する平和主義者

朝まで三国志 劉虞

 

そんな劉虞は、善良な人物として知られています。彼は漢王朝の末裔の一人ではありましたが、良く民のことを思って領を治めていたと言います。また争いを嫌うというか、避ける傾向のある人物でもありました。

 

烏桓族

 

それが分かるのが張純(ちょうじゅん)が烏丸族の手助けで反乱を起こした時に、彼らを反乱軍として滅ぼすのではなく、あくまで懐柔策を取り入れたことで相手を帰順させています。この一件で劉虞は出世することになりました。

 

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三国志とお金の話

 

 

袁紹に皇帝に即位するように勧められた事も

袁紹

 

その人望が分かるのが、袁紹(えんしょう)とのある話。反董卓(とうたく)連合軍によって董卓が洛陽を逃れていった際に、袁紹は劉虞に皇帝になってはどうかと言いました。しかし劉虞は自分の身には過ぎたことであるとこれを断りました。

 

袁紹の目的がどこにあったかは分かりませんが、嫌われている人を皇帝とはしないと思いますので、皇帝にして良い、と判断できる人物だったのでしょう。ただしここから劉虞の運命は暗くなっていきます。

 

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if三国志

 

 

異民族対策で好戦的な公孫瓚と対立

公孫サンは英雄劉備が真似した人物だった公孫瓚、劉虞

 

ここで公孫(こうそん)サンと劉虞の対立が始まります。公孫サンと劉虞の異民族への対策方法は真っ向からぶつかり合い、折しも公孫サンは袁紹に敗北。今の内に公孫サンと戦おうとする劉虞でしたが、家臣から

 

「公孫サンは頼りになるから小さいこと(劉虞の異民族への贈り物強奪)には目を瞑りましょう」と言われ機会を逃し、後に10万の兵力を集めて戦おうとした際に「勝算の見通しは立ってないから武威(ぶい)を示して降伏させましょう」という進言を士気低下をさせようとしたものとして部下を処刑したことで軍が混乱、よりにもよって公孫サンにバレて立てこもりをされてしまいます。

 

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太平道の秘密

 

 

公孫瓚の人質作戦に敗北し殺される劉虞

易京城に兵糧を蓄え、堅城を作った公孫瓚

 

ここで民に犠牲が出ることを好と「できなかった」劉虞は「余人は傷つけないように、殺すのは伯珪(はくけい)一人」という命令を出しました。もちろん民衆を盾にされて立てこもりをされているので劉虞の軍は上手く動けず、公孫サンから反撃を受けて敗北。

 

公孫瓚と劉虞

 

劉虞はこの後に「皇帝になれるほどの人物だったのだから雨を降らせるように、できなければ死刑」というどこかの小覇(しょうはおう)のような取引を突き付けられ、最終的に処刑されました。ただしこの劉虞の処刑により袁紹と民衆を怒らせ、公孫サンも歴史から姿を消すことになるのでした。

 

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全訳三国志演義

 

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両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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