殷王朝とは?青銅器と数万人の生贄!文明と破壊の二面性を持つ中国最古王朝の特徴

2022年7月25日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

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おとぼけ(田畑 雄貴)

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殷王(商王)

 

殷王朝とは紀元前17世紀に成立し遅くとも紀元前1046年に滅亡したとされる中国最初の王朝です。考古学で確認できる最古の王朝である殷は、その後の中国王朝の原型であり、同時にまるで違う政治システムも持っていました。今回はとても不思議な殷王朝の特徴について解説しましょう。

 

 

殷王朝の誕生

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甲骨文字は殷の時代になってから誕生、発展するので、殷王朝の成立前に文字史料はありません。

 

そのため、考古学上の遺跡発掘に頼る事になりますが、それによれば河南省鄭州市の二里岡文化で大規模な都城が発掘されこれが殷の建国者、天乙(てんいつ)(湯(とう))の都、亳(はく)と推定されています。

 

二里岡遺跡は周囲約7kmの城壁に囲まれた大規模な都城で城壁の外に骨器や陶器を作る大きな工房群が位置し、その中に2つの青銅器工房もある事から青銅器文明であった殷の都とされています。

 

しかし、欧米の考古学者は殷墟(いんきょ)と違い、二里岡遺跡から文字の出土がない事から、ここを殷王朝発祥の地とするのは慎重な立場です。

 

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殷が起こるとは?

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殷が起こるとは、殷王朝が中国の支配者になるという意味です。司馬遷(しばせん)の史記(しき)によると、殷の前に天下を治めていた夏王朝(かおうちょう)の桀王(けつおう)は暴政を敷き、その治世はひどく乱れました。

 

これに対し殷の湯王(天乙(てんいつ))は天命を受け悪政を正す大義名分を掲げ、伊尹の助けを借りて反乱を起こし、鳴条の戦で夏軍を撃破してその支配下の各都市を破壊、夏王朝を滅亡に追い込んだとされます。

 

しかし、これはあくまでキレイゴトであり、考古学調査によれば、夏王朝の都市のひとつ望京楼遺跡(ぼうきょうろう・いせき)では、殷軍による激しい破壊と虐殺の跡が発見され、遺骨の多くは手足が刃物で切断されたり顔が陥没するなど無残な状況で、実際は殷が力によって、中原の支配者の座を勝ち取った様子が窺えます。

 

夏王朝の遺跡としては二里頭遺跡(にりとういせき)があり、時期的に二里岡遺跡に先行し、人口も2万人と当時の世界ではトップクラスの都市だった事が分っています。

 

ただし、夏王朝遺跡に文字の出土はなく、本当に夏王朝が建国されたのか?周辺に影響を及ぼした都市の1つに過ぎないのではないか?など殷王朝に先行する王朝として認めるのには慎重な意見があります。

 

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殷王朝 読み方

 

殷王朝ですが、殷墟から出土した甲骨文字には王朝名及び「殷」は見当たりません。つまり殷の人々は自分達の事を殷人とも殷王朝とも呼んでいなかったのです。逆に殷墟では商という文字が出土し殷人は自分達を商人、王朝を商王朝と考えていた可能性もあります。

 

殷を滅ぼした周は先代の王朝名として「殷」を用い、その事から商は殷と呼ばれるようになりました。殷は商を見下した呼び名とも言われますが、殷の字義は賑やか、繁栄、厳かとポジティブな意味しかなく蔑称とは違うようです。

 

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殷王朝 遺跡

 

殷王朝は成立から滅亡までに何度も遷都を繰り返しているようです。鄭州(ていしゅう)の都城(とじょう)遺跡から6キロメートル離れた地点には偃師商城(えんししょうじょう)と呼ばれる殷の都城が発見され規模は鄭州都城と同規模でした

 

さらに安陽市の殷墟の北東には洹北商城(えんほくしょうじょう)と呼ばれる遺跡が発掘され、18代殷王陽甲(ようこう)、19代盤庚(ばんこう)、20代小辛(しょうしん)が首都を置いた可能性もあるそうです。ただ文字遺物は出土せず詳しい都の成り立ちは分かりません。

 

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殷川 殷王朝を産んだ洹水

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殷王朝が最終的に都を置いたと考えられるのが殷墟で紀元前1300年頃から滅亡まで300年近くも存在しました。

 

殷墟は、洹水南岸(えんすいなんがん)にあり甲骨文字が小屯村で出土することが契機で発掘が始められその地区が宮殿および工房と考えられ首都の存在が推定されました。その規模は東西6キロメートル南北4キロメートル、面積は24万平方メートルに渡ります。

 

殷墟は洹水をはさんで北岸と南岸に分かれ、、南岸に小屯村(および安陽市)などが位置し、北岸には武官村などが位置しています。この洹水が殷文明のゆりかごだったようです。

 

武官村一帯には王の墓とも呼べる13基の大規模な墳墓が発見され、22代の武丁以降8代は密集して存在します。そのなかで遺物が発見されていない墳墓は、殷朝最後の王である紂王のもので、殷王朝滅亡により埋葬されなかった墳墓であると考えられています。

 

小屯村一帯は武丁以降の甲骨や青銅器が集中して発掘され小屯村北東部が宮殿の位置する殷墟の中心と考えられ、村の周囲から工房跡なども見つかっていますが城壁の痕跡がなく、本当に殷の首都だったのか疑問も持たれています。

 

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殷王朝の出土品

 

小屯村北東部では、22代殷王武丁(ぶてい)晩年の妃であった婦好(ふこう)の墳墓が未盗掘の状態で発見されています。婦好は妃であるだけでなく軍事に関しても才能を示し、羌を討伐するために13000の兵士を率いた記録もあり、墳墓からは青銅の武器も出土しています。

 

墳墓は10メートルも掘り下げた地下に造営され、6匹の犬のほか、少なくとも16人の殉死者、副葬品として440以上の青銅器、約600もの玉石器、石彫類、骨角器、約7,000枚の貝貨が発掘されました。

 

手厚い埋葬を見ると、殷王朝の人々はあの世の存在を信じており、死後も生活に困らないように奴隷や金銀財宝、祭祀の道具を共に埋めたと考えられます。

 

あの世に対する考え方や地下に墳墓を作る形式は、後の中国王朝にも引き継がれていて、殷が後の時代に与えた影響力の強さが窺えます。

 

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小屯村で出土した亀の腹甲(ふくこう)や牛や鹿の肩甲骨(けんこうこつ)には文字が刻まれていて、合計で五千字以上の文字が確認、そのうち千七百字ほどが解読されました。

 

またこの甲骨文字の研究で、殷王朝の存在が同時代資料を通じて確認され、この文字が現在使用される漢字の祖形であることも分かりました。甲骨文字こそが殷王朝の実在を裏付けたという事が言えます。

 

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殷を滅ぼした国 周

周を建国する武則天

 

殷王朝を滅ぼしたのは周です。遺跡の出土品に記録された銘文によると周は、殷の外地に位置する衛星国の1つで、当初はあまり従順ではなかったらしく時に殷に征伐された記録もあります。

 

しかし、対立する一方で、殷王朝から周に命令を下した甲骨文や「周侯(しゅうこう)」と記された甲骨文も残され周は殷に服属していたことも分かります。

 

また、殷王の妃の名前に「婦周(ふしゅう)」という人物名があり、周は22代殷王武丁以降、殷へ服属すると当時に娘を殷王室に送り込んで親族となり殷王室の貴族として言語・文化・信仰を殷と同じくするようになったと推定されます。

 

周は初代の后稷(こうしょく)から15代目の姫昌(きしょう)が王位を継ぐと非常に強くなり、ついには宗主国の殷から「西伯」の地位を受け、殷の西方面においての独断の武力行使を許されるようになります。

 

この姫昌と同時代の殷紂王(ちゅうおう)は暴君だったため、殷王朝の諸侯は姫昌に頼って革命を期待しますが、姫昌はその期待には応えず病死、後を継いだ姫発(きはつ)が、紀元前1046年に牧野(ぼくや)の戦いに勝利して紂王を滅ぼし、周王朝を建国し武王と名乗ります。

 

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殷王朝 最後の王 紂王

紂王

 

殷王朝の最後の王は30代の帝辛(てい・しん)、紂王です。

 

国を滅ぼした紂王ですが暗君ではなく頭の回転が速く、議論も得意で力は猛獣を素手で殺すほどでした。しかし自分が優れているために臣下が馬鹿に見えてしまい諫言を受けても得意の弁舌で誤魔化してしまったそうです。

 

漢自慢の弁舌臣下を黙らせる紂王

 

 

こうして、紂王は慢心していき「天王(てんおう)」を自称すると祭祀を怠り、重税を課して天下の宝物を自らの物にし、おべんちゃらを言う佞臣を重用。さらに戦争で手に入れた愛妾の妲己に溺れ、日夜宴会を開いてウヒョに耽り、また、妲己の言うことは何でも聞いて実行。

 

酒池肉林を楽しみ、諫言をする賢臣を炮烙のような残酷な刑罰で処刑しました。

 

また紂王は猜疑心が強くなり、諸侯で少しでも謀反の疑いがあるモノは殺し、乾肉や塩辛にしてしまうので身の危険を感じた諸侯は、周の武王をリーダーに反乱を起こし、紂王は戦争に敗れて殺害され殷は滅亡します。

 

ただ、これは周王朝が自分達の所業を正当化する為に紂王を暴君にしただけであり、甲骨文の記録によると紂王は、先代まで続いていた生贄を取りやめさせ、熱心に祭祀をおこなった名君だそうです。

 

殷墟には未使用の空の墳墓があり、これは紂王が入る予定だったと考えられ、この事は紂王がいつ死んでもおかしくない年齢に達していた事を裏付け、治世が安定していた様子が窺えます。一方で紂王は東方の征服に気を取られ、親戚になっていた周に対する警戒を解いた隙を突かれクーデターで滅ぼされたという説も有力であるようです。

 

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殷王朝の政治

洛陽城

 

後の中国王朝との共通点が多い殷ですが政治システムは独特でした。

 

殷王朝は世襲制を取らず、「甲(こう)」「乙(いつ)」「丙(へい)」「丁(てい)」の4つの王族から持ち回りで王を選出し、さらに、「戊(じゅつ)」「己(こ)」「庚(こう)」「辛(しん)」「壬(じん)」「癸(き)」の6つの王族から中継ぎや妃を出させていたと考えられています。

 

しかし、非世襲であったのは初期で殷王朝の権力が強大化すると権力の集中が進められ、辛、丁、乙の3王族が王位を独占、事実上の世襲制になったのではないかとも考えられます。

 

実際、22代武丁以来の王墓8つは殷墟がある武官村一帯に集中して存在し、この8名が血縁的に近い世襲王だった可能性もあります。

 

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膨大な生贄を必要とする神権政治

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現代の考古学調査によると、殷王朝は占いによって政治をしていました。これを神権政治と言います。しかし、殷の神権政治は多数の人間の生贄(いけにえ)を必要とするものでした。

 

後年になればなるほど生贄は増えていき、発掘により少なくとも14000人が生贄とされたと見られます。これは当時の人口を考えても異常な人数です。

 

さらに殷王朝は、この生贄を調達する為に他部族から人間の献上を強要しました。このような恐怖政治が他の多くの部族の反感を買い、やがて、周や微(き)など東西南北の従属国が連携し、紂王が東夷の征伐に乗り出した隙をついてクーデターを起こし牧野の戦いで殷軍を撃破し殷は滅びたようです。

 

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殷王朝の青銅器

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青銅器は殷時代に数多く製作されました。殷の青銅器は周の時代のそれに比較しても大きくて重厚です。殷の青銅器デザインで一番特徴的なのが饕餮文(とうてつもん)です。

 

「饕餮」というのは中国神話に登場する怪物で大きな口、誇張された目、曲がった角や虎の牙を持つ怪物です。中国の青銅器には饕餮の口や目、角や牙がいたる所に張り巡らされ、独特の雰囲気を持っています。

 

元々、饕は「財を貪(むさぼ)る」、餮は「食を貪(むさぼ)る」という意味で饕餮は貪欲な怪物ですが、何でも食べるという事から転じて魔を喰らうとなり魔除けのシンボルとなりました。殷王朝では時間を経過するごとに青銅器に対する比重が大きくなり、祭祀ばかりではなく武具も青銅器で制作するようになります。

 

この徹底した青銅器へのこだわりは、次第に青銅器を簡素化していった周とは対照的で殷の青銅器の価値を高めています。

 

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殷王朝と日本の繋がりとは?

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殷王朝と日本については直接の繋がりを見出す事は出来ません。殷王朝が栄えていた時代、日本は縄文の晩期で中国沿岸なら兎も角、内陸の殷王朝にまで使者を派遣して交流していたとは考えにくいからです。

 

しかし、殷滅亡後の周の時代である紀元前10世紀に倭人(わじん)と呼ばれる人々が周成王に暢(ウコン)を献上したとする記述が後漢の王充の著書「論衡」に登場します。

 

ただ、この倭人はそのまま日本人を示すのではなく、現在の中国の雲南省に住んでいた人々で、この倭人が海を渡って日本に土着し日本人の祖になったという事のようです。

 

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殷王朝の戦車

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殷王朝の軍隊は、それぞれの氏族で構成された貴族を主体とした軍隊でした。彼らは殷王の召集を受けると氏族の構成員が農具を武具に持ち替えて軍を編制し、それぞれの部隊の指揮官は氏族を率いる貴族が勤めました。

 

初期の殷王朝は歩兵を中心とした軍隊でしたが、戦争に勝利して領土を広げると兵種と戦法、軍備に改良が加えられ戦車と歩兵をミックスさせた編成になりました。戦車が活用されたのは黄河下流域や中原など、平坦な土地が多かったためで人が走り回るよりも戦車の機動力が有利になったからです。

 

殷王朝が一度に出撃させた戦車は300両にもなり、これを左軍、右軍、中軍の3つに分けそれぞれが連携して戦う事でライバル国を次々と撃ち破りました。1輌の戦車には3人の兵士が乗り込み、左側の兵士が弓を右側の兵士が矛や戈を持ち、中央の兵士が馬を操りました。

 

戦車戦では御者を倒せば勝敗が決定するので、御者を戦車からひきずり落す戈(か)と呼ばれる鉤爪の戟が開発されますが、同時に御者も初期から全身を革の鎧で覆い、頭には青銅製の兜を被るなど重武装でした。

 

 

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世界史ライターkawausoの独り言

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今回は中国最初の王朝、殷王朝について解説しました。

 

黄河流域に誕生した殷王朝は漢字のルーツである甲骨文字を産みだし、優れた青銅器文明を発展させる文化的な一面を持つ反面、非常に好戦的で敵の都市を破壊し、敵兵の手足を斬り刻み、頭蓋骨を陥没させるなど残虐な王朝でもありました。

 

また占いで全てを決める神権政治を採用していましたが、その生贄として分かっているだけで14000人もの人間を犠牲にするなど周辺諸国に恐れられ、遂に30代、紂王の時代に滅亡に追い込まれてしまったのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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