袁煕は袁紹の次男で、北方四州の中の幽州を任されました。
袁紹の死後に起きた長子袁譚と末弟袁尚の抗争では積極的に関与する事なく中立を貫きましたが袁譚に敗れた袁尚が幽州に来るとこれを庇い、そのために幽州の豪族に背かれ烏桓族を頼って落ちる事になります。今回は袁家の地味な次兄、袁煕を紹介します。
この記事の目次
袁紹の次男として誕生し袁煕は幽州刺史へ
袁煕は字を顕奕、または顕雍と言い豫州汝南郡汝陽県に誕生します。父は袁紹ですが生母は不明で兄は袁譚、弟は袁尚、従兄弟に高幹がいました。
幼い頃の逸話は不明ですが、父の袁紹が黒山賊や公孫瓚を滅ぼすのに付き従い、公孫瓚を易京に滅ぼした建安4年(199年)に幽州刺史に任命されます。
公孫瓚の強さの秘密は?
-
公孫瓚の武力の強さは独自の戦闘組織にあった
続きを見る
妻は甄氏だが鄴に残して単身赴任する袁煕
しかし、袁煕には奇妙な点があります。妻の甄氏を鄴に残して幽州には単身赴任していたのです。正史三国志によると甄氏が袁紹の妻の世話をしていたからと書かれていましたが、どうして甄氏が袁煕の実母でもない袁紹の妻の面倒を見ていたでしょうか?
これは推測ですが、袁紹は次男の袁煕をあまり信用してあらず、冀州の名家の出身である甄氏を幽州に移さないで冀州に置くことで袁家の求心力を担保しようとしたのではないでしょうか?
しかし、これは袁煕にとっては悲劇になります。建安9年(204年)袁尚が鄴を放棄して落ち延びると甄氏は曹丕に捕らえられ、その妃になってしまうのです。
曹操と曹丕が妃を奪い合った?
-
【世説新語】人妻ハンター曹操が息子に先を越されてトホホ
続きを見る
後継者争いに加わらない袁煕
建安7年(202年)袁紹が後継者を定めないまま病没。兄の袁譚と末弟の袁尚は家臣団の支持が喰い違い袁家勢力は分断しました。
しかし袁譚は実子であるにもかかわらず、後継者争いに加わりませんでした。これはどうしてなのでしょうか?袁譚が控え目な性格であった可能性ありますが、甄氏の件もあわせて考えると、どうも袁煕の生母の出自は高くなく、袁紹は袁煕を後継者から除外していたのかも知れません。
袁紹がそれを明言したのではなくても袁煕はそれを感じ取り、出過ぎた真似はしないと自重して動かなかったという可能性もあります。
袁尚とはどんな人?
-
袁尚(えんしょう)とはどんな人?兄と争ったせいで袁家をつぶしてしまった漢
続きを見る
袁家滅亡の危機に立ち上がる袁煕
しかし、建安9年(204年)弟袁尚が曹操と手を組んだ袁譚に敗れると、袁煕は沈黙を破り、あえて弟を管轄地の故安に迎え入れて助けました。
血を分けた弟だから助けて当然と考えるかも知れませんが、袁煕の行動は非常にリスキーなものでした。幽州にはすでに曹操のシンパが多く、結果的に焦触、張南ら多くの離反を招き、幽州を追われる事になったのです。
こうなる事は分かっていた袁煕ですが、それでも母違いの弟袁尚を助けました。どうしてなのか?これは名門袁家を残すために袁煕が見せた最後の意地かも知れません。
袁譚とはどんな人?
-
袁譚(えんたん)ってどんな人?めちゃくちゃ三男と仲が悪かった袁家の長男
続きを見る
【次のページに続きます】