劉備(りゅうび)と曹操(そうそう)の大きな違いを上げるならば、曹操が自ら動いて人材スカウトをしているのに対して、劉備は、人材のほうから寄って来るという点です。孔明(こうめい)のような例外を除けば、劉備が、外で名前を出すと、
「えっ、あなたが、あの有名な劉備様、是非子分にして下さい」と続々と人が集まってきます。
それは、さながら人間磁石のようで、いくら三国志演義に虚構があってもこの特別扱いは反則だろうと思う程です。さて、劉備は、曹操と戦っている最中の袁紹(えんしょう)に、荊州の劉表と同盟を結んで、曹操を挟み打ちにしては?と持ち掛けています。
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劉備の思惑
実は、これには裏があり、関羽(かんう)も戻り、用済みになった袁紹の保護を離れて、独自の勢力を築こうという思惑がありました。袁紹(えんしょう)は、劉備の提案を入れて、これを許します。
劉備は、荊州の劉表の下に向かう途中で関羽(かんう)と合流、次に趙雲(ちょううん)と合流し、汝南郊外で山賊まがいの事をしていた張飛(ちょうひ)とも合流、さらにここで縻竺(びじく)縻芳(びほう)の兄弟も配下にします。
着々と人材を自分の配下に加わえる劉備
さらに、宿屋の息子であった関平(かんぺい)を子供が居なかった関羽の養子として陣営に加え、これにプラスして関羽を尊敬して止まない元黄巾賊の首領、周倉(しゅうそう)までもが仲間に加わりました。
周倉は、正史三国志には、登場しないフィクションの人物ですが、配下になってから終生、関羽に就き従い、関羽が孫権(そんけん)の手で斬首された時には、自らも首を刎ねてしんだ程の関羽命の男です。
因みに関羽が描かれた掛け軸では、この周倉と関羽、それに関平がセットで描かれるのがお決まりになっています。このように、劉備が袁紹の下を去るや、これを追うように、沢山の人々が劉備の家来になりたがり、その数は、3000騎を数えたと言われます。
劉備は手狭になった古城を出て、汝南(じょなん)城に入り、小勢力ながら、群雄の一人として再出発を切ったのです。しかし、さっきまで、一人だったのが、ドンドン人材が集まってきて3000騎とは、劉備は営業マンだったらトップクラスですね。