吉川英治の小説「三国志」や横山光輝のマンガ版が、明(みん)の時代(14世紀後半の頃)に羅貫中(らかんちゅう)という人物が書いた
歴史小説「三国志演義(さんごくしえんぎ)」を下敷きにしていることは良く知られています。
実はこの「三国志演義」もまた、それ以前に既に存在していた三国志を題材とした読み物をベースにしています。
そのベースとなったのが「三国志平話(さんごくしへいわ)」です。
「三国志平話」とは、どんな内容だったのでしょうか?
元の時代にまとめられた「三国志平話」
「三国志平話」は正しくは「新刊全相平話三國志(しんかんぜんそうへいわさんごくし)」と言います。
元(げん 13世紀後半~14世紀前半)の時代に刊行された「全相平話五種(ぜんそうへいわごしゅ)」に収められたもので、
上・中・下の三巻なる、全ページ挿絵入りの絵物語です。
宋の時代にはすでに中国各地に三国時代の英雄たちにまつわる説話や伝承が数多く存在していました。
これをひとつの物語としてまとめたものが「三国志平話」です。
しかし、もともとバラバラだった伝承や説話をつなぎあわせた為に、「三国志平話」は史実とは大きく異なり、矛盾も多い話になっていました。
また、超常的な現象を描くなど、より荒唐無稽な内容であることも大きな特徴です。
「三国志演義」はこの「三国志平話」の『善玉の主人公・劉備(りゅうび)』と『悪玉・曹操(そうそう)』の対立という基軸は維持しながら、
史書「三国志」に書かれた史実の流れを重視し、矛盾なくより洗練され完成された小説として後世の評価を得ました。
劉備・曹操・孫権は歴史上の人物の転生した姿だった!!
「三国志平話」の物語は三国時代(さんごくじだい)からさかのぼること約150年ほど前、
後漢王朝(ごかんおうちょう)の初代皇帝、光武帝(こうぶてい)の時代からスタートします。
光武帝の時代、天帝(てんてい・神様のような存在)の命令によって冥土で裁判が行われることになりました。
その裁判は、さらにさかのぼる事350年前、前漢王朝(ぜんかんおうちょう)発足の頃の事件を扱うというもの。
その裁判で被告人とされたのはなんと、前漢王朝の初代皇帝、漢の高祖・劉邦(りゅうほう)とその妃である呂后(りょこう)でした。
裁判の原告となったのは、劉邦の下で働き建国を助けた功臣(こうしん)でありながら、
後に劉邦の謀略によって殺された韓信(かんしん)・彭越(ほうえつ)・英布(えいふ)の三人です。
裁判官に選ばれたのは、司馬仲相(しばちゅうそう)という人物でした。
司馬仲相は、原告の同時代人であった蒯通(かいつう)の証言を得て劉邦と呂后の謀略を暴き、有罪の判決を下します。
判決を知った天帝は、三人の原告と二人の被告を未来である三国時代に転生させることにしました。
韓信は曹操、彭越は劉備、そして英布は孫権(そんけん)として転生、一方の被告である劉邦は後漢王朝最後の皇帝、
献帝(けんてい)に、呂后は献帝の妃である伏皇后に転生しました。
さらに、裁判で重要な証言を行った蒯通は諸葛亮(しょかつりょう 諸葛孔明)として、
そして裁判官を務めた司馬仲相は司馬懿(しばい 司馬仲達)として転生。
前漢時代を創った英雄たちが再びこの世に生を受けることで「三国志平話」の物語は始まります。
関羽の息子、関索は「三国志平話」に登場しない?
「三国志演義」に比べて荒唐無稽、史実との矛盾点も多い「三国志平話」ですが、
意外なことに「三国志演義」に登場する架空の武将、関羽(かんう)の息子である関索(かんさく)は登場しません。
関羽には関平(かんぺい)や関興(かんこう)という息子がいて、いずれも蜀の武将として活躍したことが史実として伝わっていますが、
関索の名前は歴史書には一切登場しません。三国志演義には、実在した関平と関興も登場しています。
(ただし、関平は史実では関羽の実子であるところを、演義では養子として登場します)
関索は「三国志演義」の後半に登場、関羽が戦に破れて敗死した際に自分も大ケガを負ったことが語られますが、
他には大して活躍することもなく、いつの間にか姿を消してしまいます。
大して重要な役ではなく、なぜそんなキャラが登場するに至ったのか、長年謎とされていました。
1967年、上海近くに在住していた農民が農地の整備作業中に明の時代の墳墓を発見、その副葬品の中には11冊の本が含まれていました。
後年行われた研究の結果、この11冊の本の中の1作が「花関索伝(かかんさくでん)」という、関索に関する伝承をまとめた本であったことが判明し、「三国志演義」に登場する関索はこの「花関索伝」が元ネタであったことが分かりました。
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