『三国志演義』には、関羽(かんう)の息子として、数名の人物が登場します。
有名なところで、父である関羽と共に荊州を守り、
共に戦死した関平(かんぺい)、父の死後、孔明による北伐にも参加した関興(かんこう)などが挙げられます。
その中でも謎とされている人物が関索(かんさく)です。
史実には一切記されていないという、この関索という人物は一体何者なのでしょうか?
突然登場する謎の登場人物
『三国志』をはじめとする史書に関索の名前は一切記載されていません。
そのことから架空の人物であるとされる関索ですが、一方、『三国志演義』での描かれ方にも、不思議な点があります。
『三国志演義』では実在した関羽の息子である関平(ただし『演義』では関羽の養子とされています)や関興が登場、活躍していますが、
関索の名は関羽が死に至るまで登場しません。
関索は孔明の南伐のエピソードの際に突然登場します。
関索は関羽の三男であるとされ、荊州で関羽が敗死した際、自身も大ケガを負って療養していたという生い立ちが語られています。
唐突に意味ありげに登場してきたこの関索なる人物、しかし、その後物語に大きく関わることはなく、気がついたときにはいつのまにか退場しているという始末。関羽の息子ということなら、関平や関興が十分活躍しているので、わざわざ新たに架空の人物を登場させる意味はどこにもありません。
『三国志演義』以外では有名な関索?
『三国志演義』と並んで中国四大奇書(ちゅうごくよんだいきしょ)のひとつとされる小説『水滸伝』に登場する楊雄(ようゆう)という人物は作中で
『病関索(びょうかんさく)』=『顔色の悪い関索』とあだ名されています。
『三国志演義』が成立した15世紀以前、武将や盗賊の呼び名として『厳関索(げんかんさく)』『小関索(しょうかんさく)』『朱関索(しゅかんさく)』といったあだ名が用いられていた記録があり、また、一部の地方には関索の名を冠した地名も残されています。
どうやらこの関索という人物、『三国志演義』が誕生する以前には相当有名で人気もあったようなのですが……。
関連記事:【衝撃の事実】三国志演義はゴーストライターによって書かれた小説だった!?羅貫中じゃないの?
1967年に発見された『花関索伝』
1967年、上海近郊の農地で明(みん)の時代の墳墓が発見されました。その副葬品の中には11冊の書物などが含まれていました。
その一冊が『花関索伝(かかんさくでん)』です。
『花関索伝』は関羽の血を引く青年が、恩義のある(関羽を含む)三人の人物の名から一字ずつ取って「花関索」と名乗り、
後に劉備の麾下として活躍するという物語です。
『三国志演義』には元になった『三国志平話(さんごくしへいわ)』という絵物語が存在していますが、
『花関索伝』はこの『三国志平話』と良く似た装丁・形式で作られており、『三国志平話』以降、それをマネて作られた読み物であると考えられています。
研究の結果、三国志演義に登場する関索は、この『花関索伝』に登場する花関索がベースとなっていることが判明しました。
まるで“メアリー・スー”な花関索
『花関索伝』は、主人公である花関索がすべての出来事の中心にあって、なんでも一人で解決してしまうという荒唐無稽な展開をその大きな特徴としています。
戦場ではほとんど花関索が一人で敵を倒してしまい、関羽や張飛ですら出番がありません。
孔明は劉備が死ぬと修行と称して勝手に姿を消してしまいます。ほとんど『あいつ一人でいいんじゃないか』状態です。
更に、『三国志演義』では関羽の配下として登場する周倉(しゅうそう)や蜀の重臣であるはずの糜竺(びじく)なども花関索の敵として登場し、
あげくの果てには妖怪変化まで登場するなど、とにかくハチャメチャな展開を見せる『花関索伝』。
どうしてこうなった……?
『三国志演義』が成立した明の時代、多くの三国志を題材とした通俗小説が出版されました。
それらは他作品との差別化を図る意味から他には登場しないキャラクターを登場させることが多くあったといいます。
花関索は地方に伝承されていた花関索の物語をベースに、物語の独自性を出すために作り上げられた“都合のいい”主人公だったと言えます。
現代の二次創作小説において、作者の都合の良い主人公として創作され、原典である物語の主導権を獲ってしまう
キャラクターを“メアリー・スー”と呼んだりしますが、花関索は正に中国版メアリー・スーと呼べる存在かもしれません。
関連記事:時空を超える関羽、琉球の民話に登場
関連記事:命乞いでここまで堕ちるか?関羽に命乞いし全てを失った男・于禁
関連記事:三国志の二次小説が江戸時代に書かれていた