諸葛誕、字は公休は魏に仕えた武将です。生年は不明ですが、息子の諸葛靚(しょかつせい)が司馬懿(しばい)の孫の司馬炎(しばえん)と幼馴染だったり、死亡前年の257年には次の司空まで二番手という年次だった事から、はとこの諸葛瑾・諸葛亮より一世代程度若い人だったのでしょう。はとこではなく彼らの父親である諸葛圭の末子、諸葛均の弟という説も残ります。
蜀漢はその竜を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得たり
諸葛誕の説話で良く知られるのが、「蜀漢はその竜(諸葛亮)を得、呉はその虎(諸葛瑾)を得、魏はその狗(諸葛誕)を得たり」という一文です。順序や使われている文字から「じゃあ大したことないんじゃない」と思われがちですが、この場合の狗という字は賛辞に当たります。魏でもかなり評価の高い人物でした。
魏の中央政府で行政官として働き(蜀・呉の親族のおかげで出世は遅かったそうです)、夏侯尚の息子の夏侯玄と仲が良く、司馬懿と敵対する曹爽の派閥に属していました。
明帝(曹叡)の代には「少々軽いところがけしからん」と免職されたりしましたが、曹芳(廃位されたので諡は無し)の代には中央官僚に返り咲きます。この頃より昭武将軍に任命されるなど武官としても働きます。
曹爽は司馬懿との権力争いに敗れ死亡
やがて曹爽は司馬懿との権力争いに敗れ死亡、夏侯玄も左遷されます(司馬師の代に三族誅滅)が、諸葛誕はその後も司馬懿の下で働く事となりました。これは娘が司馬懿の息子に嫁ぎ姻戚関係にあった事が影響したようです。
都督(軍司令官)の1人となり、司馬懿の没後も司馬師の下で働きました。252年には東興(現在の安徽省合肥市巣湖のほとり)の戦いで呉の諸葛恪と戦い敗北、豫州(洛陽や許昌の一帯)方面担当と転属になりますが、この後の呉国とのゴタゴタでは再び魏軍の前面で戦う事となりました。この戦いで功績を挙げて征東大将軍となります。
司馬氏を恐れる諸葛誕
一見魏の重鎮となった諸葛誕でしたが、夏侯玄など自分の周囲の高官たちが次々に滅ぼされていく様子から司馬氏を恐れるようになり、対呉国の最前線である寿春(現在の安徽省六安市)にて10万人も軍兵を増強したり、私兵も大勢蓄えるようになりました。
司馬氏側も司馬師の跡を司馬昭が継ぎ、諸葛誕のこうした動きに注意するようになり、征東大将軍から司空(国家の土木工事を司るがこの頃は名誉職)へ昇進させる事で、諸葛誕が寿春で蓄えた兵力と分離させようとします。これに対し諸葛誕は「自分はまだ司空になる年次ではない、これは罠だろう」と反発、反乱を起こして呉と結びました。
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反乱を起こす諸葛誕と対峙する司馬昭
司馬昭は26万もの大軍を率いて寿春を包囲します。呉の援軍が来たり、諸葛誕側の兵も強く善戦しますが次第に劣勢となり、包囲網により城内が飢えに苦しみます。
諸葛誕の最期
諸葛誕側では仲間割れなども起こり、最後に諸葛誕は城を撃って出ますが殺され、その三族は皆殺しとなりました。また寿春に居た多くの兵は司馬昭側に投降しましたが、数百名がこれを良しとせず斬殺されました。彼らは最後まで「諸葛誕のために死ぬなら本望」と言っていたそうで、人望の厚い人物だった事がうかがえます。
三国志ライターの栂みつはの独り言
司馬氏との権力争いに敗れた諸葛誕ですが、演義で悪役とされている魏にもこのような諸葛一族がいる事に、やっぱりこの時代ってすごいなあ…と思わずにはいられません。蛇足ですが、魏には諸葛緒(しょかつしょ)という武将も居ました。
255年頃には対呉国戦にも登場しますがその後雍州(現在の陝西省一帯)刺史に任命されており、諸葛誕とは近い親族ではなかったようで、諸葛誕の寿春での乱では特に登場しません。鄧艾の伝で、蜀討伐の際の指揮官として登場しますが、進軍に際し慎重な姿勢から讒言を受け都に送還されました。しかしこの件で罪に問われる事は無く、その後も晋に仕え高官となり、娘は司馬炎の夫人となっています。
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