徐盛(じょせい)は、孫権が孫策の跡を継いだ時に仕えた将軍です。人生をほとんど戦の中で過ごし、呉のために戦い続けた将軍です。
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200人で数千の敵を破る
徐盛は孫策(そんさく)の跡を継いだ孫権(そんけん)に仕えます。初めは兵士を500人ほど預かる部隊長に就任し、前線に配置されます。あるとき劉表(りゅうひょう)軍の黄射が数千を率いて、徐盛が守備する地域に攻め込んできます。
徐盛はこの時、200人に満たない兵士しか率いていませんでした。しかし、彼は果敢に出撃し、黄射を破って徹底的に追撃します。黄射は命からがら荊州に退却し、以後徐盛がいる地域には攻めてこないようになったそうです。また異民族討伐戦でも功績を挙げており、これらの功績により、孫権から信頼を寄せられるようになります。
数々の戦いに身を投じる
赤壁の戦いの後、曹操(そうそう)軍が呉軍の重要拠点・濡須に大軍を率いて攻め込んできます。徐盛は孫権の指揮下に入り、曹操軍迎撃のため出陣します。徐盛は他の諸将と共に突撃船で攻撃を仕掛けようと出航しますが、強風のため船が流され、諸将と共に敵中に孤立してしまうのです。
諸将が恐怖で震えても徐盛は周りを奮い立たせる
徐盛は、諸将が恐怖で震えるなか、敵中に突撃を開始します。恐怖で震えていた諸将も彼の突撃に奮い立ち、一緒に突撃を敢行します。この突撃で、敵軍は退くことになり、徐盛たちは孫権軍の本陣に帰還することができました。その後は、曹操軍と膠着状態になり、決着をつけることが出来ないまま、曹操軍は退却することになります。敵中を突破した功績が認められて、将軍に任命され、ご褒美もたっぷりもらったそうです。
夷陵の戦いにも陸遜の元で奮闘する
また夷陵の戦いでは、陸遜(りくそん)の指揮下に入り、劉備軍迎撃のため参加します。徐盛は、劉備軍に攻撃を仕掛けるたびに、砦や陣を陥落させるなど数々の戦功を挙げていきます。
呉の柱石として魏軍迎撃戦に赴く
徐盛は夷陵の戦いの後、魏軍に備えるため魏国との国境沿いに転勤となります。転勤後すぐに、魏の曹休が攻撃を仕掛けてきます。徐盛は呂範らと共に迎撃に出陣しますが、この時も長江が大荒れに荒れ、出航した突撃船が転覆してしまいます。徐盛はすぐさま、乱れた軍を立て直し、船で流されていた兵士を回収して、曹休率いる魏軍の攻撃を防ぎ、撃退することに成功するのです。その後、魏の皇帝・曹丕(そうひ)が大軍を率いて、呉に侵攻してきます。
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徐盛は大軍の曹丕に勝てないと判断
徐盛は数々の戦で得た経験を元に、この大軍にまともにぶつかっては勝てないと判断し、ある策を実行に移します。ある策とは呉の沿岸数100里渡り「ニセの城壁」の建築をすることです。諸将は無意味だからやめろと徐盛の策に反対します。しかし彼は反対意見を押し切り、偽の城を建造するのです。
果たして偽の城が曹丕に通用したのか?
曹丕はこの城を見て「孫権の陣営には人材が数多く、呉の地を平定するのは難しい」と周りに愚痴をこぼした後、退却するのです。三国志演義では、曹丕率いる魏軍が退却したのを見計らい、徐盛や丁奉などの諸将と共に猛追撃を開始する。そのため魏軍は大ダメージを受け、さらに草木が多く茂っている場所で、魏軍に火計をしかけます。この追撃により、赤壁の戦いに匹敵するほどの損害を受ける事になるのです。
三国志ライター黒田廉の独り言
徐盛は人生の大半を戦で明け暮れた人物で、呉の国を心底愛しているエピソードをご紹介したいと思います。それは魏に臣従していた時のことです。魏の使者が孫権に対して傲慢な態度で接してきました。重臣の張昭(ちょうしょう)など群臣が怒っておりましたが、発言できず黙っておりました。
徐盛は、群臣たちが黙っている中、前に出て「過去に劉備を倒せなかったために、現在、魏のような国と同盟をしてしまった」と叫んだ後、群臣がいる中で号泣してしまうのです。魏の使者が孫権に対する無礼な態度を取り、みんな怒っているが、誰ひとり声を挙げない中、徐盛一人が痛烈な批判を言い放つ。この行動は、呉を心底愛し、勇気がないとできないですね。
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