遼東三代記第二回目は公孫度の息子公孫康(こうそんこう)です。
彼は父が拡大した領土をそっくりそのまま受け継ぎ、中原の戦乱をよそに遼東を安定させます。
しかしいつまでも安定した時間は続きませんでした。
虚を取るか実を取るか二者択一の選択を迫られる時がやってきます。
遼東三代記1回目:公孫度(こうそんたく)とはどんな人?幸運に恵まれ、遼東の王になった男【遼東三代記】
この記事の目次
父の跡を継ぎ、領地を安定させる
彼は父公孫康が亡くなると、広大な領地を継ぎます。
遼東には中原の戦乱がほとんど及んできません。
その理由は鳥桓族のおかげです。
鳥桓族は幽州に拠点を置いており、彼らが必然的に公孫康の領地である遼東の盾の役割を果たしてくれていたため、中原の戦乱の影響はありませんでした。
そのため公孫康はしっかりと内政に勤しみ、領地を安定させていきます。
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中原の名士が戦乱を避けて遼東へ
公孫康は中原の戦乱を避けてきた人材を積極的に登用しようと試みます。
遼東に訪れた人材は多く代表的な人物は、後の呉の武将となって有名になる太史慈(たいしじ)や魏の曹操に仕えた邴原(へいげん)、
魏の名士達から何回も推挙されたが、全部断った高潔の士・管寧(かんねい)などが遼東に避難しておりました。
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中原の名士を家来にしようと試みるが失敗
公孫康は遼東に訪れていることを聞き積極的にアプローチを開始。
彼は名士である管寧(かんねい)に積極的にアプローチしますが、仕えてくれませんでした。
さらに太史慈や邴原などの名士に呼びかけますが、彼らは仲間になってくれませんでした。
曹操に敗れ、袁紹の勢力は河北から無くなる
曹操軍と袁紹軍は官渡で大決戦を行い袁紹軍は敗れます。
その後態勢を建て直した袁紹軍は、倉亭(そうてい)の戦いで巻き返しを図りますが、ここでも敗北。
袁紹は血を吐いて亡くなります。
袁紹の息子達は別々に曹操に抵抗しますが、長男袁譚は曹操に打ち取られ、次男袁煕と三男袁尚は鳥桓族の単于・蹋頓の元へ逃げ込みます。
平和な時代を過ごしてきた遼東に戦乱の嵐が刻々と近づいてきます。
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鳥桓族の王・蹋頓曹操に敗れる
鳥桓の王・蹋頓は袁尚と袁煕兄弟を迎え入れ曹操軍に決戦を挑むため、鳥桓族全軍を柳城に集結させ、白狼山へ陣を張ります。
曹操は白狼山に陣を張っている鳥桓族へ奇襲攻撃を敢行。
鳥桓族は曹操軍の奇襲攻撃に敗北し、柳城へ退却。
蹋頓も柳城へ向けて退却しますが、曹純率いる虎豹騎の攻撃によって討ち死にしてしまいます。
袁尚と袁煕の兄弟は何とか死地を脱し、遼東へ逃げ込みます。
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疫病神が遼東に舞い降りる
公孫康は敗れた袁氏兄弟を遼東に迎え入れます。
しかし曹操の軍勢も遼東へ迫ってきておりました。
公孫康は袁氏兄弟が鳥桓族の元へ逃げた事により滅亡したと報告を受けており、彼らを助けて曹操と戦う事で公孫家の名を天下に轟かせるか、それとも袁氏兄弟の首を曹操に差し出して、遼東の安全を図るべきか迷います。
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虚を捨て、実を取り遼東の安寧を図る
公孫康は迷った挙句、鳥桓族の二の舞を避けるため、袁尚と袁煕を捕縛。
その後彼らを殺害し、首を曹操の元へ送ります。曹操は袁氏兄弟の首を送り届けて来た公孫康に対して、遼東の独立を認めて左将軍に任命します。
公孫康の決断により、再び遼東は平穏な時を手に入れたのです。
三国志ライター黒田廉の独り言
公孫康の決断により再び遼東には平穏が訪れます。
この決断の後公孫康は亡くなってしまいます。
彼の後継ぎはまだ幼かったため、弟の公孫恭(こうそんきょう)が跡を継ぐことになります。しかし彼は父や兄のような覇気のある人物ではありませんでした。
そのため次の遼東三代記に出てくる公孫淵(こうそんえん)の脅迫に抗えず、位を譲ることになります。
今回のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~♪