魯粛(ろしゅく)、字は子敬といいます。
彼が徐州臨淮郡東城県(下邳国東成県でしょうか)に生まれたのは172年。
かの英雄、周瑜よりも三つほど年上ということになります。
生後まもなく父を亡くし、祖母のもとで育ちます。
生家はかなりの資産家だったようです。
年齢で計算すると、黄巾の乱は魯粛が12歳、反董卓連合が結成されたのが18歳の頃です。
袁術が帝位を専称したときには27歳でした。
狂児出現と長老たちは嘆く
呉書によると、魯粛は堂々たる体躯にめぐまれ、若い頃から志が大きく、
しばしば人の意表をつくことをやってのけたそうです。
後漢の衰退から天下の動乱を予感し、武芸の修行とともに少年らを呼び集めて衣食を支給し、
狩猟と称して軍事訓練をしている有様を見て、土地の長老たちはこんな狂児が出たら魯氏もおいまいだと嘆いたそうです。
魯粛は後漢滅亡後のシナリオを思い描いていたのかもしれません。
「先哲の秘論によれば、劉氏に代わって天運を受け継ぐ者は、かならず東南に起こる」
これは呉書では周瑜が孫権旗下に魯粛を誘う言葉として引用されていますが、
魯粛のオリジナルだった可能性もあります。
周瑜へ財の半分を渡す
周瑜(しゅうゆ)と魯粛が仲が良かったことはよく知られていますが、
出会いは周瑜の方から押しかけています。
周瑜が揚州盧江郡(あるいは九江郡)の居巣県県長(県知事)に赴任してきたときです。
おそらく周瑜を県長にすえたのは袁術(えんじゅつ)です。
あたかも袁術から逃げるが如く長江以南へ赴任したように思われていますが、
居巣県は袁術の本拠地である寿春と目と鼻の先です。
ここで周瑜は魯粛からふたつある米倉の半分、三千石を貰い受けたといいます。
「聞きしにまさる人物だ」と感じ入った周瑜は魯粛と親交を結ぶのです。
流れ的には袁術の兵糧集めに協力したというのが本筋でしょう。
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袁術が名声を聞きつける
呉書によると、それで名声を聞きつけた袁術が東城県(東成県)の県長にすえたとあります。
兵糧を供給できたことに対するお礼だったのかもしれません。
しかし魯粛は袁術が無軌道すぎて一緒にはやっていけないと早々と見切りをつけたそうです。
この辺りがどうも袁術を悪者とし、袁術と呉建国とを切り離そうとする意図が見て取れるような気がします。
本当に魯粛は袁術を見限ったのでしょうか。
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住民たちとともに長江を降る
魯粛は一族の老人子供、遊侠の徒百人を従えて居巣県の周瑜のもとに身を寄せ、
ついでに長江を渡り呉郡の曲阿県に移り住んだそうです。
しかし、袁術を見限った割には、すぐに東城県に戻ります。
しかも孫策(そんさく)が没する200年まで東城県に滞在していたことになるのです。
袁術が帝位を専称するのが197年ですから、この当時は袁術の傍にいたことになります。
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孫権に帝位に進むことを説く
親友の劉曄に呉郡で勢力を拡大してきた鄭宝を討つべく協力要請がきてようやく長江を渡り、呉へ向かいます。
魯粛の家族は周瑜に匿われていたようです。周瑜は孫権に従うように勧めてきます。
そして主君である孫権には魯粛を強く推薦するのです。
差しで面会した魯粛は孫権に向かい、黄祖を討ち、劉表を征伐し、
荊州を支配することで長江全域を治め、帝位に昇ることを進言します。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
私は、魯粛の帝位へ昇る進言は袁術にしたものだと考えています。
孫権のもとに来るまでの魯粛の詳細が、呉書ではまるでわからなくなっているのはそのためです。
袁術の参謀的な役割を担っていた可能性もあります。
志が大きく、人の意表をつくのが好きな魯粛ですから、
袁術の帝位を推し進めたとしても不思議ではありません。
と、いうことで私の勝手な推測ですが、いかがでしょうか。
あり得なくもないと、私は思いますよ。