実は作戦的な撤退だった!?
五丈原の戦いにおいて有名なことば、「死せる孔明、生ける仲達を走らせる」。
しかし近年、この説に異論を唱える学者や作家が現れている。
いわく、「司馬懿は孔明の死を分かっていたうえで、わざと騙されたふりをして撤退したのだ」。
どういうことかというと、長い五丈原の戦いで、兵站は伸び、士気は下がっていた。
このまま戦い続けると、長期戦になる可能性がある。それに、孔明を失った蜀は統率を失い、内部分裂するはずだ。
そこまで見抜いた司馬懿は、わざと敗走したふりをして撤退したというのである。
本当か!?と疑いたくなるような説だが、しかし、今までの研究が蜀及び孔明寄りだったのは確かである。
そこから離れた視点で三国志を考えてみるということが、これから求められてくるのではなかろうか。
と私は思います。
子だくさん
冷淡・淡泊なイメージとは異なり、実は子だくさんだった司馬懿。
その子どもの数は、なんと九人!
本人が八人兄弟なことといい、司馬家の遺伝子には子だくさんの遺伝子が含まれているのでは……などと思ってしまいますね。
これでは臣下の出産祝いを送る曹丕や曹叡もさぞかし大変だったことでしょう。
司馬懿の作戦勝ち
曹叡に継ぐ曹芳(そうほう)の時代。
曹爽(そうそう)と司馬懿で曹芳を支えるよう曹叡に言われたことを無視して、
曹芳は司馬懿を閑職にまわし、やりたい放題権勢をふるっていました。
ちなみにこのとき、君主である曹芳はかなり冷遇されていたと言われています。
しかし曹爽、腐っても曹家。司馬懿が何か企んでいるのでは……と思って、部下を司馬懿のもとに使わせます。
それをあらかじめ見抜いていた司馬懿は、「司馬懿は年も年なのでボケてきている」という噂を流させ、
実際にやってきた曹爽の使者の前でも、完全にボケてしまったふりをしてみせます。
使者からこれを聞いた曹爽は大喜び。
もはや司馬懿畏れるに足らず、と歓喜します。
ところが! その後、司馬懿は曹爽の隙を狙って劇的なクーデターを起こします。
曹爽側でも司馬懿の実力が図り切れず、内部争いなどをしているうちに、司馬懿はあっと言う間に曹爽を攻略。
一瞬にして権力の座につきました。
司馬懿の最期
なんとこの時代にしては珍しい、89歳まで生きた司馬懿。
彼の死後は次男の司馬昭(しばしょう)が後を継ぎ、その後を継いだ孫の司馬炎(しばえん)は、
時の魏の王に王位を禅譲させることに成功します。
こうして成立したのが晋(しん)です。
つまり、司馬懿は新時代の幕開けを準備したといえましょう。
彼は他の三国時代の英雄たちよりも遅れて生まれはしましたが、紛うことなき英雄の一人だったのです。
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三国志ライター・秋斗の呟き
というわけで、今回は司馬懿を紹介させていただきました。
私が司馬懿にはまったきっかけは、プレイもしていないのに他人の絵を見ていた三國無双がきっかけなのですが、
三國無双の外見はもちろん、史実を調べているうちに、どんどんと魅了されていきました。
とどめが北方謙三版「三国志」だったのはもちろんです。
改めて振り返ってみると、司馬懿は遅れて生まれてきた英雄、という感じがします。
と言うより、周瑜(しゅうゆ)、孔明などの同年代の英雄たちが早死にしてしまったのが大きかったのだと思います。
彼らが長生きしていれば、また歴史は変わっていたことでしょう。
しかし、歴史にもしもはありません。
三国時代の最終的な勝者は、司馬懿だったとも言えるのではないでしょうか。
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