曹操(そうそう)は河北の戦いに勝利し、中国の半分を手に入れることになります。
その後曹操は、荊州を降伏させ、自分に逆ら最後の勢力孫家の討伐に向かいますが、
孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)の連合軍に赤壁の地で負けてしまいます。
三国志を知っている人も知らない人も一度は耳にしたことがある赤壁の戦いですが、
なぜ曹操は赤壁の戦いで負けたのかを考えてみました。
この記事の目次
曹操にとっての赤壁の戦いとは!?
赤壁の戦いとは曹操VS 孫権・劉備連合軍の戦いです。
三国志を知っている方なら結果は知っていると思いますが、
連合軍の勝利でこの戦は終結。
しかしこの戦いがどのような経緯で、
行われる事になったのか知らない方がいるのではないでしょうか。
そこで曹操サイドに立って赤壁の戦いを紹介していきたいと思います。
まず曹操にとって赤壁の戦いは、自分の勢力に敵対する唯一の存在である孫家を倒して、
天下統一を決める大事な一戦でした。
なぜ孫家のみが曹操に敵対していたのでしょうか。
孫家以外の群雄は何をしていたのか。
孫家以外の群雄はなぜ曹操に反抗的な態度をとっていないのでしょうか。
まず、曹操と孫権以外の群雄を紹介する前に、三国志の州を紹介します。
三国志の時代は北から幽州(ゆうしゅう)・幷州(へいしゅう)・冀州(きしゅう)・
青州(せいしゅう)・徐州(じょしゅう)・兗州(えんしゅう)・豫州(よしゅう)・
涼州(りょうしゅう)・益州(えきしゅう)・荊州(けいしゅう)・
揚州(ようしゅう)・交趾(こうし)、そして洛陽や長安近辺を含めた
司隷(しれい)を合わせて13の州に分かれておりました。
このうち曹操は幽州・幷州・冀州・青州・徐州・兗州・司隷・豫州・司隷・
荊州と中華の半分以上を手に入れておりました。
そして残っている州のうち、揚州は孫家を領地としており、
益州は劉璋が領地としておりました。
そして涼州は韓遂(かんすい)や馬騰(ばとう)らの反乱軍が占拠。
さてこれらの群雄はなぜ曹操に反抗的な態度をとらないのでしょうか。
益州の劉璋はなぜ曹操に反抗的じゃないのか。
益州の劉璋は漢中にいる張魯(ちょうろ)と戦いを繰り広げておりました。
しかし何度も張魯(ちょうろ)に戦いを挑んでも勝つことができない為、
劉璋は曹操に張魯討伐を行ってもらおうと考えます。
そこで劉璋は曹操と友好関係を結ぶため、色々な贈り物を送ります。
このような経緯から劉璋は曹操との友好関係を望んでいた為、
敵対するつもりはなかったように思われます。
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涼州の独立軍閥達は曹操と敵対しようと企んでいたのか
結論から言うと涼州の独立軍閥達は、
赤壁の戦い以前は曹操と敵対しようとは考えていなかったと思います。
むしろ友好的な関係を築いておりました。
なぜ彼らは曹操の勢力と友好的な関係を築いていたのか。
それは張既(ちょうき)と鍾繇(しゅよう)の二人の文官の努力の賜物です。
鍾繇は馬騰や韓遂ら曹操の領地に攻め込んでこないように長年、
友好関係を築いてきました。
河北平定戦の時袁紹の甥である高幹(こうかん)が
幷州で反乱を起こします。
この時鍾繇の部下である張既は涼州から高幹を討伐する時に協力してくれるように、
馬騰の説得に成功。
張既に説得された馬騰は、息子の馬超と龐徳(ほうとく)らに軍勢を預けて、
袁紹の甥である高幹討伐を行っております。
その為、涼州の馬騰や韓遂らは曹操に反抗しようとする意志は、
この時点ではなくむしろ友好的な関係を保っておりました。
孫家以外は曹操に敵対する意思なし。そのため…
益州と涼州が曹操と敵対する意思がないため、
孫家のみが曹操に敵対する可能性がありました。
そのため曹操は涼州と益州の討伐を後回しにして、
敵対する可能性が一番高い孫家を討伐目標に定めたと考えられます。
孫権が降伏するようにビビらせる
荊州を降伏させた曹操は孫権を討伐目標に決めた後、まずは荊州に侵攻を開始。
荊州は曹操軍の圧力にビビり、一戦もせず降伏します。
曹操は荊州を手に入れると孫権に脅迫状を送ります。
この時曹操は孫権に送った脅迫状に「俺の軍は80万位で、お前の領地に攻め込むから」と
いった内容の手紙を送ります。
孫家の武将達はこれしきの脅迫状で、ビビる事はありませんでした。
しかし孫家の国論は曹操に降伏すべしという勢力と曹操と決戦すべしとの派閥に、
分裂しておりました。
孫家の降伏派の主張
孫家の国論はなぜ降伏か抗戦するかに割れてしまったのでしょうか。
その原因は曹操が漢の帝を擁していた事が原因です。
曹操は漢の帝である献帝(けんてい)を擁していた為、
表向きは漢の皇帝の軍勢という事になります。
そのため孫家の文官の最高位にいた張昭を筆頭に文官達は孫権に
「曹操は漢の帝を擁しており、逆らえば逆賊の扱いを受ける事になるでしょう。
そのため降伏するべきです」と説得しておりました。
孫家の抗戦派の主張
文官が曹操に降伏するように説いていましたが、
武官は曹操に抗戦すべしと孫権を促しておりました。
抗戦派の筆頭は亡き孫策(そんさく)の親友である周瑜(しゅうゆ)です。
彼は孫権に「曹操軍は水軍戦に不慣れであることから、
こちらに勝ち目はあります。また長い遠征の為、
北から連れてきた兵達は疲労が溜まっていることも、
わが軍にとって有利に働くことでしょう。」と孫家の軍と曹操軍を比較して、
孫家に勝ち目がある事を説きます。
孫権の決断
孫権は降伏派と抗戦派二つの意見をじっくりと聞き、ついに決断を下します。
その決断は曹操と抗戦することに決めました。
この決断をするときに劉備軍の軍師である諸葛孔明から、
孫家と劉家の同盟話が持ち掛けられたことも彼の決断を後押します。
こうして孫権は曹操との決戦を決め、戦う準備を始めます。
水軍を率いて鳥林の地に着陣
曹操は自分が送った書状が孫家の内部に動揺をきたすほどの精神的圧迫を受けていないと知ると、
彼は荊州で手に入れた水軍と赤壁の戦い以前に、
自分の領土で大きな池を作って訓練させた水軍を孫権の前線基地である、
赤壁の対岸にある鳥林(うりん)に着陣。
曹操は鳥林に着くとさっそく隙の無い陣を敷きます。
曹操軍が赤壁で敗戦した理由その1【疫病の蔓延】
こうして曹操軍と孫権軍は赤壁の地で互いの陣をにらみ合う事になります。
では曹操はなぜ大軍であるにも関わらず、孫権軍に敗北してしまったのでしょうか。
ここからは曹操軍の敗北理由を挙げていきたいと思います。
曹操軍が赤壁で負けた理由その1は、疫病が発生した事が原因と言えるでしょう。
曹操軍の兵士は荊州で降伏した兵士以外はすべて来たから連れてきた兵で、
南の土地に慣れていない事や慣れない船旅が原因で軍の中で疫病が蔓延。
そのため曹操軍は手紙の中で80万とかなり盛った数字を孫権軍に示しておりましたが、
実際に戦う事ができる数は疫病が蔓延する前は約20万でしたが、
疫病が蔓延したため、20万より大幅に下回っていたと思われます。
この疫病発生が赤壁の戦いの敗戦の原因の一つだと考えられます。
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赤壁の戦いで曹操が敗北した理由その2【水軍力の差】
曹操軍は孫家討伐を行う前に、鄴(ぎょう)近辺に巨大な人工池である
玄武池(げんぶいけ)を作り、水軍の訓練を行います。
その後曹操は大軍を率いて南下し、孫権軍の水軍と対峙することになります。
しかし孫権軍と曹操軍が数年訓練した水軍とでは実力が全然違いました。
孫権軍が領地としている揚州は揚子江が最大の河川となっておりますが、
それ以外にも小さい河川が網の目のように張り巡らされております。
そのため揚州に近辺での戦は主に水戦が中心となります。
また揚州では民衆の生活には船が欠かせないものとなっていることから、
船を操る兵士の練度が非常に高く優れておりました。
上記2点の理由から、曹操軍が赤壁の地で孫権・劉備連合軍に敗北した
主な原因であると私は考えます。
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三国志ライター黒田廉の独り言
黒田廉が考えてみたシリーズの第一弾である赤壁の地で曹操軍がなぜ負けたのかを
紹介しました。
他にも色々な原因が混ざって曹操軍が赤壁の地で敗北したのだと思いますが、
私が考えたのはこの2点だと思います。
三国志演義ですと孔明が東南の風を吹かせた事をきっかけに
曹操軍の水軍に火攻めをしたことで大敗北することになります。
この東南の風を起こしたエピソードは三国志演義の中での作り話です。
しかしこの赤壁の戦いで敗北していなければ、たぶん天下は曹操の物になっており、
三国志の物語は出現しなかったと思われます。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」
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