曹操(そうそう)の息子にして、熾烈な後継者争いに勝利を果たした曹丕(そうひ)。彼は父の曹操のように戦上手ではありませんでしたが、政治に関しては父に似て色々な政策を実施して魏の発展に貢献しております。今回は魏の発展に貢献した曹丕はどのような人物で、どういった政策を行っていったのかご紹介します。
色々な物を身に着けた青年期
曹丕は黄巾の乱が勃発する3年前ほどに生まれます。彼は幼少期から父である曹操が家に帰ってくると射術(しゃじゅつ)を教えてもらい、すぐにマスターします。また父から学問にもしっかりと打ち込むようにと言われ、「史記(しき)」や「漢書(かんしょ)」などを読んで行き、学問においても優れた才能を発揮していくようになります。こうした青年期を迎えた曹丕ですが、彼の趣味は詩を書いたり読んだりすることでした。
弟・曹植と共に詩文を学ぶ
父曹操が戦や政治に忙しい中、家に帰ってきて時間を見つけると詩文を作っておりました。曹丕や三男の曹植(そうしょく)は父が詩文を作っている姿を小さいころから見ており、曹丕と曹植は父が帰ってくると二人して父から詩文を学んでおりました。こうして二人は共に父から学び詩文の面白さを学び、二人で仲良く詩を作ってお互いの詩を読み合わせして、どこが悪いのか、どう改善すればよいのかなど互いの詩を評価しあっておりました。
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曹操の後継者争いが始まる
曹丕はこのように武芸・学問・芸術と色々な物を学び、青年期を過ごしていきますが、曹操が50歳を超え始めた頃、父が自分の後継者を選び始めます。彼は正妻である卞氏(べんし)が生んだ曹丕・曹彰(そうしょう)・曹植の他にも、数多くの子供達を設けておりました。
その中で特に可愛がっていたのが、環夫人が生んだ曹沖(そうちゅう)です。彼は幼い頃から天才的な頭脳を持っており、大人顔負けの知識を学んでいき、10歳ごろには曹操が厳しく罰した人を救うような優しさを見せております。他にも彼にまつわる天才的なエピソードが数多く存在し、一番有名な物は孫権(そんけん)から贈り物として送られてきた象の量り方を曹操に示した事です。
ある日、孫権は曹操に象を送ってきます。曹操は群臣を試すために「この象の量り方を知っている者はいるか。」と尋ねます。しかし群臣は誰一人曹操の問いに答えられる者はいませんでしたが、そんな時、曹沖が手を挙げて「私が答えてもいいですか。」と父に尋ねます。父は「沖よ。お前に分かるのか」と聞くと「分かりますよ。」と快諾します。そして曹沖は群臣と父に向って「まず象を船に乗せます。すると重さで船が沈むので、船が沈んだところに印をつけます。
この印をつけた所まで物を船に積めば、象がどの程度の重さであるかわかるのではありませんか。」と明快に答えを示します。曹操は曹沖の答えに感心し、彼を大いに褒めたそうです。この後から曹操は曹沖を可愛がり、彼を後継者とするような言動を側近達に行ったりしておりました。曹丕は自らが曹操の後継者であることを自覚していたので、曹沖が次世代の後継者となるのではないかとかなり脅威を感じておりました。しかし曹沖は病に倒れてしまい、そのまま亡くなってしまいます。曹丕は曹沖が亡くなった事で自分が一番後継者に近くなるはずだと、ホッとしましたが新たなライバルが出現します。
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仲の良かった三男との後継者争い
曹丕は曹沖が亡くなってホッとしていましたが、新たなライバルが出現します。そのライバルは三男曹植です。
彼は自信が兄である曹丕と後継者争いを繰り広げるつもりはなかったのですが、彼の取り巻きが曹植を担ぎ出して曹操の後継者になれるように色々と画策していきます。曹操も冷酷な一面を見せる曹丕よりも優しくて人間味に溢れ、詩文が上手い、曹植の方が好きでした。しかし曹操はこの事を側近や周囲に漏らすことは無く、二人の争いを見守っておりました。
曹操の後継者が決定
曹丕(そうひ)は曹植(そうしょく)と熾烈な後継者争いを行っておりましたが、ついに父曹操は自らの後継者を曹丕に決定します。曹操が曹丕を後継者とした理由は、天下がまだ定まっていない中心優しい曹植が魏を率いていく事になれば、非情の決断ができずに困る事が多く存在するであろう。それに比べれば曹丕は非情の決断を行う事ができ、魏を保っていく事ができるであろうと言う理由から後継者として曹丕が選ばれる事になります。こうして曹丕は曹操の後継者となる事が決まると、やっと一安心することができました。しかし天下は魏・呉・蜀に三分され定まっておりませんでした。
魏のトップに君臨する
曹操が病のため亡くなります。曹操が亡くなると魏のトップとして曹丕が立つ事になります。彼は曹操の跡を継ぐと漢の世を終わらせて魏の王朝を創建することを計画します。しかし漢王朝の皇帝を殺害して、魏の王朝を作り出すことはどうしても避けたいと考えておりました。その理由は後世の批判を回避するためと漢王朝を慕っている民衆や配下の家臣の反発を少しでも和らげなくてはいけませんでした。そのため彼はどうやって魏王朝を創建すればいいか配下と共に考えを巡らしていきます。
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禅譲方式を確立させる
曹丕は魏王朝創建させるために家臣達と協議を重ねていった結果、ついにいい方法を思いつくことになります。曹丕達が思いついたいい方法は、禅譲というやり方で魏王朝を創建する事です。禅譲とは皇帝が天子の位を譲る方法で、曹丕が考えて編み出した「禅譲の方式」は、魏の次の王朝となる晋(しん)や宋・斉・隋(ずい)などの歴代王朝が曹丕のやり方を真似て、いく事になります。
こうして曹丕は漢の皇帝である劉協(りゅうきょう)に、漢の王朝が終わりを告げている現状を突き付けて、禅譲を行うように仕向けます。劉協は自分でも漢王朝が終わりを告げている現状を知っていたので、曹丕に皇帝の位に就くように要請を行います。
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魏の王朝を開く
曹丕は漢の皇帝から皇帝の位に就くように要請を受けますがきっぱりと断ります。その後も劉協は三回も曹丕の元へ使者を出して、皇帝の位に就くようにと要請を出し、三度目になってようやく曹丕は首を縦に振って皇帝の位に就く事になります。こうして漢の王朝は終わりを告げて、新たな魏王朝が建国されることになります。