はじめての三国志のライター陣は、読者アンケートを共有し、
その疑問に、なんとか答えを出すべく日夜、奮闘しています。
しかし、その疑問の大半は1800年の昔の事で、文献にも答えがないのが普通。
考えれば当然の話で、そこで分らないから、はじさんにアンケートが来るのです。
そこで今回は、よく読者アンケートに出てくる夏侯覇の妻は誰?という疑問に
kawausoが思考錯誤して答えを出してみました。
この記事の目次
夏侯覇(かこうは)について、簡単な説明・・
初心者の方の為に夏侯覇(かこうは)について簡単に説明しておきましょう。
夏侯覇は字を仲権(ちゅうけん)といい、魏王朝建国の元勲、
夏侯淵(かこうえん)の二男です。
幼少期の事は定かではないですが、兄弟達と同様に武勇に優れていたようです。
しかし、西暦219年、尊敬する父、夏侯淵は定軍山で
蜀の後将軍黄忠(こうちゅう)に討たれ弟の夏侯栄(かこうえい)も戦死してしまいます。
夏侯覇は、その事で蜀を深く恨み父と弟の無念を晴らそうと考えていました。
そして、西暦230年には王族の曹真(そうしん)大将軍に従軍して、
蜀を攻撃しますが、功を焦ったのか蜀軍に包囲されてしまいます。
幸いにこの時には味方援軍の到来で命拾いしました。
司馬懿のクーデターであれだけ嫌っていた蜀へ亡命
その後、夏侯覇は、右将軍、転じて征蜀護軍に昇進しました。
しかし、西暦249年、司馬懿(しばい)によるクーデター、
高平陵の変で、曹爽(そうそう)や何晏(かあん)というような王族が
司馬懿に政治の実権を奪われ殺害されます。
また、夏侯覇の従子であり、曹爽政権下では何晏と同じく重職にあった
夏侯玄(かこうげん)が征西将軍から退けられ、代わりに反りが合わない
郭淮(かくわい)が就任すると、
「これは、夏侯玄同様に、私に難癖をつけて排除し
最後には殺す布石ではないか?」
と夏侯覇は司馬懿を疑い、従子の夏侯玄にも手紙を書いて、
蜀への亡命を勧めます。
夏侯玄は、これを受けなかったので手紙の内容が司馬懿に露見する事を恐れた
夏侯覇は間もなく蜀に亡命しました。
夏侯玄は、夏侯覇の推測通り、次第に追い詰められ、
後に李豊の司馬師暗殺計画に連座して、西暦254年に処刑されます。
関連記事:絶対ダメ!三国時代に流行していたドラッグ!?漢方薬を違法ドラッグにした何晏
関連記事:何晏(かあん)とはどんな人?三国志一のナルシストで歴史に名を残した男
夏侯覇には、亡命が成功する自信があった
恐らく、夏侯覇は征蜀護軍として蜀に対峙する間に、
情報として、劉禅の妃が夏侯氏である事を知っていたのだと思われます。
彼女は、西暦200年頃に張飛に誘拐されて妻になった人で、
その娘が劉禅(りゅうぜん)に嫁いでいたのです。
だから、自分が亡命しても蜀は丁重に扱いこそすれ、よもや、
殺すような事はあるまいと、夏侯覇は密かに考えていたのだと思われます。
その目論見は外れず、また敵将を優遇して投降者を出やすくする為に
蜀は亡命者の夏侯覇を厚遇し、車騎将軍にまで昇進しています。
関連記事:夏候夫人|張飛の妻は、夏候淵の姪だった?
曹氏に近づこうと努力している夏侯氏の系図
さて、ここで、恒例になった、はじめての三国志特製、
夏侯氏の系図をご覧頂きたいと思います。
夏侯惇と夏侯淵の一族を主として挙げていますが、
黄色で塗られたのが、曹操や曹操の兄弟、曹操の妻の妹、
或いは曹真の姉妹を嫁に取った夏侯一族です。
見ると夏侯覇の兄の夏侯衡(かこうこう)の妻は、
曹操の弟の曹徳(そうとく)の娘であり、弟の夏侯威(かこうい)の妻は
宗族の曹真の妹に当たっています。
系図を見ると夏侯氏が、王族である曹家との血縁を強めようと
しているのが一目瞭然でわかると思います。
同族の夏侯氏に及ぶべく、曹操の娘を求めた夏侯淵の一族
家系図を見ていると、もう一つ、不思議な共通点に気がつきます。
夏侯惇の一族である夏侯楙(かこうぼう)は、曹操の娘である
清河長公主を迎えているのに夏侯淵の一族は、
曹操の娘を迎えいれる事が出来ていないのです。
王族の曹氏との血縁を深めるのに、これ以上に確かな事はないので、
恐らく、夏侯淵の一族は、何とか曹操の娘か、或いは曹丕の娘を
一族の男子に迎えたいと思ったのではないか?と思います。
夏侯覇の妻は、曹操の娘の高城公主か曹丕の娘の東郷公主ではないか?
では、読者さんの質問、夏侯覇の妻は誰?の核心に入りましょう。
夏侯一族の多くと同じように、妻の部分が空白になっている夏侯覇ですが、
子孫は名前不詳ながら居た事が分っているので未婚だったわけではないようです。
ならば、その妻は誰か? kawausoが推測するに、夏侯覇の妻は、
曹操の娘の高城(こうじょう)公主か、曹丕(そうひ)の娘の
東郷(とうごう)公主であったと思います。
これは、従弟である夏侯惇の息子の夏侯楙に曹操の娘が嫁いでいる事を気にした
夏侯淵が、曹操に是非、我が一族にも公主を下さいと頼んでいたのか
曹操が、ある種のバランス感覚で夏侯淵の一族にも自身の娘か、
曹丕の娘を与えたのではないかと推測します。
史実上、高城公主と東郷公主の嫁ぎ先は分らない
史実でも、高城公主と東郷公主は、嫁ぎ先も分らずその後の消息も不明です。
それ以外の公主は、いずれも記載があるのに、これも不思議です。
もしかして、曹氏の血族に繋がる夏侯覇が蜀に降った事を恥じて、
夏侯氏は意図的に夏侯覇の妻についての記載を削ったのかも知れません。
曹氏に血縁で繋がるからこそ、司馬氏の天下に絶望した夏侯覇・・
もし、夏侯覇の妻が高城公主か、東郷公主であったなら、
夏侯覇が早々と魏を見限り、蜀に亡命した理由も説明がつきます。
つまり、クーデターで実権を握った司馬氏は、今後、次第に曹氏に近い
重臣を排除してゆき、司馬氏に近い人間を重用するだろうという事です。
ましてや、曹操や曹丕の娘を妻にした自分は、司馬氏に排除され、
やがては殺されると夏侯覇は悲観したのかも知れません。
夏侯覇の死後、助命された子孫の不思議
夏侯覇は、西暦259年頃、蜀の滅亡を見る事なく死去したようです。
享年は不詳ですが、娘婿の羊祜(ようこ)の生年(西暦221年)を考えると、
西暦200年前後の生まれだと考えられるので、
60歳近くまで生きていた事になります。
※車騎将軍位は、同年、廖化(りょうか)と張翼(ちょうよく)が
左右車騎将軍として引き継いでいます。
それから4年後、蜀は魏の鐘会(しょうかい)と
鄧艾(とうがい)の軍勢により滅ぼされます。
この時に、夏侯覇の子孫は、元勲夏侯淵の一族という事で助命され、
楽浪郡に流されたという事になっていますが、、それは表向きの事であり、
実際は、夏侯覇の子供達が魏皇帝の血筋だから助命されたように思います。
例えば、司馬師の誅殺を企てた李豊(りほう)は李韜(りとう)の舅にあたり
李韜の妻は魏帝、曹叡(そうえい)の娘、斉長(せいちょう)公主ですが、
反乱が発覚すると、李氏は皆殺しにされます。
しかし、斉長公主の産んだ二子は、王族である事を理由に助命されています。
このように司馬氏に反乱を起こした場合でも、王族に繋がる子孫は、
助命されているので、夏侯覇が引き連れて蜀に亡命した子供も、
事実は、曹操か曹丕の娘の子であったのではないでしょうか・・
三国志ライターkawausoの独り言
そのようなわけで、取り留めもない推論に推論を重ねて紙面を埋めました。
このようなモノは、「確たる証拠を出せ」と言われればそれでお仕舞いですが、
遥か、古代に思いを馳せて、あれこれ考えるのは、悪くありません。
みなさんは、夏侯覇の妻は誰だと思いますか?
本日も三国志の話題をご馳走様です。
関連記事:夏侯覇(かこうは)ってどんな人?夏侯淵の息子でもあり蜀に亡命した勇将
関連記事:曹操の分身!夏侯惇(かこうとん)の生涯
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—