後漢は中盤に差し掛かると、前漢同様に外戚と宦官の権力抗争が激しくなります。
これは必ずしも歴代の皇帝が主導権を握れない程に無能だったというわけではなく、
むしろ歴代皇帝の寿命が短い事に問題があるようです。
そこで、はじさんでは、14名もいる歴代の後漢皇帝の寿命を調べてみました。
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この記事の目次
- 後漢の太祖 光武帝・・・・・64歳
- 後漢の繁栄を築く明帝・・・48歳
- 名君だが竇皇后の横暴を防げず、章帝・・・32歳
- 外戚を除く為に宦官を重用、和帝・・・28歳
- 中国史上、最年少の即位、殤帝・・・2歳
- 異常気象と大飢饉、外では異民族の反乱が頻発 安帝 32歳
- 毒殺か?たった200日の皇帝 少帝懿・・・・・20代?
- 宦官のお陰で即位、曹操が世に出る切っ掛けを造る 順帝・・・30歳
- 梁冀による毒殺も疑われる幼少皇帝 沖帝・・・3歳
- 幼少皇帝、梁冀を罵倒した為に早死に 質帝・・・9歳
- 外戚梁冀を滅ぼすも、宦官が繁栄、党錮の禁が起きる 桓帝・・・37歳
- 無能の代名詞、宦官を重用し金儲けに明け暮れる 霊帝・・・34歳
- 地方軍閥、董卓の意向であっさり廃位、 少帝弁・・・18歳
- 後漢のラストエンペラー、皮肉にも長寿を保つ 献帝・・・54歳
- 三国志ライターkawausoの独り言
後漢の太祖 光武帝・・・・・64歳
いわずと知れたチートな英雄、光武帝劉秀(りゅうしゅう)さすがは王朝を
建国するだけあり生命力も高く、享年は64歳と当時としては長寿命に入ります。
天下を獲ると、それまで第一線で使用していた功臣に領地を与えて実権を取り上げ
文官による政治にシフトするなど、内乱や混乱を未然に防いでいます。
沢山のダジャレを言ったそうなので、それで皇帝のストレスを緩和していたのか?
偉大な業績を残し、西暦57年に大往生を遂げます。
後漢の繁栄を築く明帝・・・48歳
後漢の二代目の皇帝、母は光武帝の初恋の人、陰麗華(いん・れいか)でした。
光武帝の第四子ですが、その聡明な才能を愛され、後継者に指名されます。
30歳で即位してから、積極的に西域経営に乗り出し、班超(はんちょう)のような
武将がシルクロード平定に活躍する事になります。
皇后は陰麗華と同じく、慎ましい賢夫人とされる馬皇后で、彼女は自身の一族が
政治に関与する事を嫌い、外戚の勢力は伸びず政治は安定し宦官の害もありませんでした。
明帝は西暦75年、48歳で崩御、長寿には恵まれませんでした。
名君だが竇皇后の横暴を防げず、章帝・・・32歳
章帝は三代目の皇帝、母は賈夫人、明帝の五男、僅か3歳で皇太子に立てられます。
当時の宮廷は明帝の皇后だった馬太后がいましたが、変わらず外戚の登用を
拒んだので、外戚も宦官の被害も表には出ませんでした。
章帝は法治主義の明帝に対して儒教を政治の中心に据えて徳と寛容を、
重視したので、社会は開放的になり文化が発展しました。
しかし、後漢を清廉に保っていた馬皇太后が79年に死去すると、
猫を被っていた皇后の竇(とう)氏が本性を露わし勢力を伸ばしていき、
意のままにならないライバルの宋貴人と梁貴人を殺害してしまいます。
ところが、竇皇后にベタ惚れの章帝は、これを制止できませんでした。
章帝が西暦88年、32歳で崩御すると10歳の劉肇(りゅうけい)が和帝として即位。
太后の竇一族が外戚として専横を振うお決まりパターンが始まります。
外戚を除く為に宦官を重用、和帝・・・28歳
和帝は4代皇帝です、章帝の4男で10歳で即位しました。
生母は梁貴人でしたが子供がいない事を妬んだ、
竇太后によって殺害され、和帝は竇皇后に養育されます。
当初は竇憲(とうけん)等、外戚竇氏の言いなりでしたが、
成人すると反感を持ち、これに逆らうようになっていきます。
竇氏もこれを察知し、和帝を排除すべく動き始めたので和帝も竇氏を先に誅殺しようと
身近にいた宦官の鄭衆(ていしゅう)に相談を持ちかけます。
鄭衆は、正義感のある公平な人物で実行力がありました。
西暦92年、和帝は竇憲を宮中に呼び出し武力で脅して
大将軍の印綬を奪い軍権を掌握してから自殺を命じました。
これにより和帝は権力を取り戻しますが、功労者の鄭衆を重用し
重職につけたので、これ以後、宦官の害が酷くなります。
おまけに和帝も短命で西暦105年に27歳の若さで死去します。
後継者は生まれたばかりの劉隆(りゅうりゅう)となり、
当然のように皇后の鄧(とう)氏が外戚として権力を振う事態になります。
中国史上、最年少の即位、殤帝・・・2歳
殤(しょう)帝は、名を劉隆と言い和帝の子で、第五代皇帝、生母は鄧皇后です。
和帝には多くの子供がいましたが、長子の劉勝(りゅうしょう)を除いては
いずれも夭折し、毒殺を疑った和帝は、劉隆を民間で養育しました。
しかし、劉隆の成長を見る時もなく、和帝は27歳で病死して、
生後100日の劉隆が殤帝になります。
これは中国史上、もっとも若い皇帝ですが、即位後すぐに病気になり
2歳になるか、ならないかで崩御しました。
異常気象と大飢饉、外では異民族の反乱が頻発 安帝 32歳
安(あん)帝は名を劉祜(りゅうこ)と言い6代目の皇帝です。
先代の殤帝が2歳で崩御したので、清河王家の劉慶(りゅうけい)の子であった
劉祜が、西暦106年に13歳で即位しました。
最初は、鄧氏が、そのまま安帝の後見として政治を行います。
つまりは幼帝を抑えた外戚の専横ですが、鄧氏はそれ以外の外戚に比べると
専横の度合いは小さく、国内で政治の混乱はありませんでした。
ところが安帝の時代には、異常気象が頻繁に起き、大飢饉が発生し、
また、西域の匈奴(きょうど)が度々、漢の領土を侵し、西域経営のシンボル
西域都護(せいいき・とご)は廃止されます。
遼東では鮮卑(せんぴ)が叛き、西では羌(きょう)族が反乱を起こすなど、
後漢の対外勢力は大幅に弱まります。
安帝は、鄧氏の専横を憎み、西暦121年、鄧太后が死去すると、
宦官の手助けを受けて、鄧隲(とうしつ)や鄧遵(とうじゅん)のような
鄧氏を粛清して親政を開始しますが、皇后に立てた閻(えん)氏は、
残忍な人物で安帝の他の妃后を殺害します。
安帝には、劉保(りゅうほ)という李氏との間に生まれた子供がいましたが、
子供のいない閻氏はこれに嫉妬して李氏を殺害、西暦125年に安帝が32歳で
急死すると皇太子に立てられた劉保まで廃嫡し済陰(せいいん)王に降格して、
少帝懿(い)を擁立して即位させます。
毒殺か?たった200日の皇帝 少帝懿・・・・・20代?
少帝懿は、名を劉懿(りゅうい)といい、第七代の皇帝です。
父は済北恵王の劉壽(りゅうとう)で、第三代皇帝、章帝の孫になります。
西暦125年の五月に外戚の閻氏と宦官の支持で即位しますが、
たった200日の在位期間で崩御しています。
閻氏と閻氏に結託した宦官の専横を憎む、宦官の孫程(そんてい)は、
ここでクーデタ―を起こし、廃嫡された安帝の子の済陰王の劉保を
擁立し、閻氏と一部の宦官勢力を一掃してしまいます。
もしかすると少帝懿の死も、孫程派による毒殺かも知れません。
少帝懿の生年は不明ですが、あまり安帝と変わらなかったでしょう。
宦官のお陰で即位、曹操が世に出る切っ掛けを造る 順帝・・・30歳
順帝(じゅんてい)は名を劉保と言い八代皇帝、安帝の夫人の李氏を母としています。
しかし、安帝が閻皇后を立てると嫉妬深く残忍な皇后により母は殺され、
皇太子だった自身も済陰王に格下げされます。
ところが、閻氏の専横を憎む宦官の孫程が動き、少帝懿の死を契機に、
順帝を担いで、閻氏と一部の宦官を誅殺した事で、順帝には帝の地位が
転がり込み、西暦125年に即位します。
宦官に深く感謝した順帝は、よせばいいのに宦官が養子を取る事を認め
こうして一代限りの存在だった宦官は、財産を子孫に残して豪族化する
事になっていきます。
こうして養子を取った宦官には曹騰(そうとう)もいて、彼が夏侯氏から迎えた
夏侯嵩(すう)からは、やがてドラ息子曹操(そうそう)が出てきて、
三国時代の主役の一人になっていくのです。
一方で順帝の皇后の梁氏が取りたてを受けると、梁一族が外戚化します。
最初の梁商(りょうしょう)は、横暴な振る舞いもなく宦官とも協調していきますが、
息子の梁冀(りょうき)は凶暴な男で何代もの皇帝を操り権力を振います。
順帝は、梁冀の専横にブレーキを掛けられないまま、
西暦144年、30歳で崩御、以後15年に渡り梁冀の独裁政治が
続いていく事になります。
梁冀による毒殺も疑われる幼少皇帝 沖帝・・・3歳
沖帝(ちゅうてい)は名を劉炳(りゅうへい)と言い、第9代皇帝です。
父は順帝、母は虞(ぐ)貴人で、西暦144年、つまり、順帝の崩御直前に
皇太子に指名され、そのまま2歳で即位しました。
当然、政治の実権は外戚の梁冀に握られ、お飾りの皇帝です。
しかも、翌年、沖帝は3歳で崩御してしまいました。
梁冀の毒殺説も囁かれています。
幼少皇帝、梁冀を罵倒した為に早死に 質帝・・・9歳
沖帝が6カ月という在位で崩御した後、梁冀が皇帝に据えたのは、
十代皇帝、質帝(しつてい)、名を劉纘(りゅうさん)という人物です。
西暦138年生まれの質帝は、この時8歳、父は渤海孝王、
劉鴻(りゅうこう)で三代の章帝に繋がる名門の出でした。
しかし、8歳にしては聡明でありすぎた質帝は、
政治を欲しいままに動かす梁冀に、誰も文句を言わない状態に不満を抱き、
ついに面と向かい、梁冀に「跋扈(ばっこ)将軍」と呼んだ為に、
帝の聡明さが、近いうちに邪魔になると考えた梁冀により毒殺されます。
西暦146年、9歳で崩御、在位は1年でした。
外戚梁冀を滅ぼすも、宦官が繁栄、党錮の禁が起きる 桓帝・・・37歳
桓帝(かんてい)は名を劉志(りゅうし)と言い、第十一代の皇帝です。
父は河間王劉開(りゅうかい)の孫、蠡吾(れいご)侯劉翼(りゅうよく)で、
質帝の死後、梁氏の権力を維持したい梁冀と梁太后により15歳で即位しました。
梁冀の権勢欲は留まる事を知らず、桓帝の妃に自分の妹を立てるばかりか、
一族から七封侯、三皇后、六貴人、二大将軍を輩出し、梁氏は最盛期を迎えます。
宮廷は、ほぼ全て梁氏の息のかかった人間で埋め尽くされ、
内心では梁冀を滅ぼしたい桓帝は、再び宦官に接近します。
結局、外戚が権力を振うと朝廷の臣は全て、外戚の威光にひれ伏し、
皇帝が頼れるのが宦官しかいないので、シーソーゲームは繰り返されるのです。
西暦159年、桓帝の命を受けた宦官、単超(たんちょう)が屋敷にいる梁冀を
軍勢で包囲、観念した梁冀が自殺すると屋敷に踏み込んで家族も誅殺。
さらに三百名という梁氏一族をほぼ全て誅殺しました。
あまりにも多く殺し過ぎたので朝廷からは人材が払底して、政治運営に
困るほどだったと言われています、没収した梁氏の財産は国家歳入の
半分にも及ぶ膨大な金額でした。
こうして梁冀を始末した桓帝は、単超を含めて梁氏誅滅に協力した
宦官に大きな食邑を与え、順帝の時のように宦官が養子を取る事を認めます。
これにより宦官の害が甚だしくなり、これに反発する清流派官僚と、
宦官が対立、党錮(とうこ)の禁という清流派官僚の投獄や追放が二度も発生します。
桓帝は22年と比較的長い在位を経て子供がないまま37歳で崩御。
外戚の竇氏と宦官は共同し、同じ河間王家から、劉宏(りゅうこう)を即位させます。
これが、三国志の序盤でお馴染み霊帝(れいてい)です。
無能の代名詞、宦官を重用し金儲けに明け暮れる 霊帝・・・34歳
霊帝は、名を劉宏と言い、河間王家の支族、解瀆亭(かいとくてい)侯
劉萇(りゅうちょう)の子として生まれます。
父を早くに失い、母の董氏と貧しい暮らしをしていましたが、
先代、桓帝に子がない事から、後ろ盾がなく、年が若い皇帝という、
外戚竇氏の意向により、西暦168年、13歳で即位します。
即位、1年目に外戚の竇氏と宦官が戦い、竇氏が滅ぼされてからは、
宦官に従い政治に関心を示さず、趣味の金儲けと女遊びに没頭、、
官職を金銭で売買するという腐敗の極みの制度を設け、後漢王朝を骨の髄まで腐らせ、
西暦184年、遂に大規模な宗教反乱、黄巾(こうきん)の乱を招きます。
この反乱で、後漢の正規軍は弱さを露呈、豪族の軍を頼りにすると、
地方軍閥が政治に参画し群雄割拠の機運が生まれます。
政治的に無能な彼は、皇后の何氏の一族である何進(かしん)大将軍と
宦官の親玉である仲常侍の張譲(ちょうじょう)達の対立をどうする事も出来ず、
西暦189年に問題を山積みしたまま、34歳で崩御します。
地方軍閥、董卓の意向であっさり廃位、 少帝弁・・・18歳
少帝弁(べん)は、第十三代皇帝で、名を劉弁(りゅうべん)と言い霊帝の長男です。
母の何氏は、元は肉屋でしたが美貌と気の強さで霊帝に気に入られ、
次には冷酷な実行力で邪魔な貴人達を押しのけて皇后になりました。
劉弁は霊帝の没後、189年に17歳で即位しますが、半年もしない間に、
政変が発生、伯父である外戚の何進が偽の勅命で宦官に斬殺され、
それに怒った、袁紹(えんしょう)、袁術(えんじゅつ)達、清流派の官僚が
兵を率いて宮殿に乱入、三千名の宦官を皆殺しにする暴挙に出ます。
少帝は、弟の劉協(りゅうきょう)と共に、宦官、張譲に連れられ洛陽を脱出しますが、
その直後、何進の命を受けて洛陽に上った董卓(とうたく)の軍勢に遭遇、
張譲らは観念して入水自殺し、少帝と劉協の身柄は董卓に握られます。
やがて、権力を握った董卓は、少帝を独断で廃位して、何皇后も
幽閉してから殺し、弟の劉協を立て、劉弁に戻った彼は弘農王に封じられます。
しかし、西暦190年、袁紹(えんしょう)を盟主に反董卓連合軍が洛陽に迫ると、
董卓は劉弁が皇帝に担がれる事を恐れて、刺客を放ち処刑します。
享年18歳、あまりにも周囲に翻弄された人生でした。
後漢のラストエンペラー、皮肉にも長寿を保つ 献帝・・・54歳
献帝(けんてい)は、名を劉協と言い、第十四代皇帝にして後漢最期の皇帝です。
霊帝の次男で、母は王美人ですが、嫉妬深い何皇后により母は殺され
以後は、霊帝の母、董(とう)太后に養育されていました。
父、霊帝が崩御すると、兄の劉弁を担ぐ、何進、何皇后、宦官勢力と
董太后の勢力が争いますが、何進の勢力が勝利、董太后は洛陽を追われて、
途中で病死、劉協は渤海(ぼっかい)王として地方に行く所でした。
しかし、数ヵ月後に、何進は宦官に殺され、さらにその宦官も、
袁紹、袁術のような何進の子分に皆殺しにされる政変が発生。
混乱に乗じて、董卓が洛陽に入城し、兄の少帝を廃位して劉協を立てます。
当時、10歳の劉協は駕籠の鳥に過ぎず、その威光だけを利用され、
董卓の死後は、李傕(りかく)、郭汜(かくし)、さらに曹操の支配下に移動します。
西暦195年からは、曹操の勢力下に入り、政権は安定しますが、
事実上、操り人形である事に、何の違いもなく献帝は憂悶の日々を送りました。
西暦220年、曹操の死後、魏王の位を継いだ曹丕(そうひ)は、
すぐさま、献帝に譲位を迫り、ここに後漢は滅亡しました。
劉協は山陽公主として、魏には厚遇され、皇帝のみの一人称である
朕(ちん)の使用を許可されるなど人生の後半生は穏やかな日々を送り
西暦234年、54歳でこの世を去ります。
これは歴代の後漢皇帝では、初代光武帝に次ぐ長寿であり、
在位年数も、これまた光武帝の32年に次ぎ31年もあります。
実権は何も無い状態での歴代第二位、これも皮肉な事ですね。
三国志ライターkawausoの独り言
後漢の14代の皇帝の平均寿命を出してみると、29・7歳でした。
七代の少帝懿は、20代として25歳という数字でやりましたが、
30歳に届かないのでは、子供の世代は幼帝ばかりという事になり、
外戚が権力を振いやすい環境にはなったでしょう。
これでも、実質は64歳と長寿の光武帝と48歳の二代明帝が
延ばしているだけでそれ以後の皇帝だけをカウントすると
平均値は22歳まで下がります。
単純に、そういう医療水準だったという事か、
皇帝として贅沢三昧の生活が寿命を縮めたのか、、
兎に角、外戚に政権を取られたくないなら、子供が成人するまでは
長生きするのが一番という事でしょうね。
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