後漢から三国時代に活躍した武将で魏の曹操(そうそう)に仕えていた武将です。
彼のエピソードで最も有名なのは、曹操(そうそう)の前で涙を流した話です。
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この記事の目次
文聘とはどんな武将?
後漢時代は仕えていた荊州の劉表(りゅうひょう)が亡くなり、
その子の劉琮(りゅうそう)は曹操(そうそう)軍に降伏しました。
降伏した後、直ぐには曹操(そうそう)の前に顔を出さなかった文聘(ぶんぺい)でしたが、
後日、謁見に来ました。
遅れて顔を出した理由を問う曹操(そうそう)に対して、
文聘(ぶんぺい)「臣たるものは、主とその国を守るためにいるのです。
武士たるものは、その目的のために最後まで戦わねばなりません。
その身分にいながら、私は国を守り通すこともできず生き永らえています。
自らのふがいなさを恥じ、姿を見せることもできませんでした。」
涙を流しながら語る文聘(ぶんぺい)を見て、曹操は思いました。
「この者が我が部下となれば、最後までわしを裏切らずついてくるだろう。」
彼の忠義を知った曹操(そうそう)は、彼を手厚く迎えるのでした。
忠義は本物だが忠義だけでは国は守れない
文聘(ぶんぺい)の忠義は本物ですが、忠義だけでは国を守れません。
武将にとって「忠義」も大事ですが、「武勇」や「智略」も無ければ、国を守ることはできないのです。
現代風にいえば、やる気一杯の新入社員がいたとしても、彼のどんな能力があり、
どのように会社のために貢献してくれるのか、というところですね。
今回は、忠義の士として知られる文聘(ぶんぺい)にどのような武勇、戦功があったのかご紹介します。
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文聘の略歴
後漢時代は劉表(りゅうひょう)に仕えていた文聘(ぶんぺい)は曹操(そうそう)らの領土との境目、
つまり北方の守備を任されていました。
その後、曹操(そうそう)に仕えると、呉との国境の守備を任されました。
この時、関内侯の爵位を賜りました。
その後、208年の赤壁の戦いを経て、荊州が劉備(りゅうび)の領となるとともに、
曹操(そうそう)軍は一時的にやや劣勢となります。
同時に劉備(りゅうび)軍と孫権(そんけん)軍が勝ち戦に乗じ、領土を奪わんと攻め入ります。
ここで一度、文聘(ぶんぺい)の勤務地(?)は不明確となりますが、
国境の守備を任されていたと思われます。
正史では一度尋口での戦いの記録がありますので、後の三国の国境の付近にいたと推測されます。
217-9年には、勢いに乗った劉備(りゅうび)軍と曹操(そうそう)軍との間で
漢中の領の争奪戦(定軍山の戦い)があります。演義では、この時他の将とともに出陣しています。
222年に関羽の死と魏の実権が曹丕に移る
222年までに、関羽(かんう)の死、夷陵の戦いを経て、
魏の実権は曹操(そうそう)の後継者・曹丕(そうひ)に移ります。
蜀の関羽の仇打ちを銘打った夷陵の戦いで呉は勝利し、
その不意を打とうとした魏はこれに失敗、三国の中が険悪になります。
しかし、直ぐに蜀と呉は和睦しました。魏は、ここで呉を討とうと進軍します(洞口の戦い)。
演義では、この時、曹丕(そうひ)は文聘(ぶんぺい)を含めた諸将を率いています。
226年、孫権自ら魏に進軍し、石陽までコマを進めました(石陽の戦い)。
この時、守備にあたった文聘(ぶんぺい)が孫権(そんけん)と正面から戦うこととなります。
主君である劉表(りゅうひょう)や曹操(そうそう)からは、文聘(ぶんぺい)は守備を任されていました。
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五虎大将軍との戦い・文聘VS関羽
赤壁の戦い以降に、文聘(ぶんぺい)は尋口で関羽(かんう)と戦っています(尋口の戦い)。
この戦いは記録が少なく時期も定かではありませんが、関羽(かんう)が魏と戦ったことと、
赤壁の戦い以降の戦いであること等を考えると推測がつきます。
赤壁の戦いの後、関羽(かんう)は荊州を任され、以降守備を任された後、
樊城の戦いから麦城での籠城で最期を遂げます。
そのため、赤壁の戦い後に、荊州の守備を任されている間での出来事となると考えられます。
この戦いで、文聘(ぶんぺい)は魏の五大将軍の一人、楽進(がくしん)とともに関羽(かんう)と戦いました。
この戦いで関羽(かんう)に勝利し、その戦功によって延寿亭侯となり,討逆将軍の官を加えられました。
また、漢津にて関羽(かんう)の輜重に対して攻撃し、荊城でその船を焼いたとの功績もあります。
関羽(かんう)を倒してというと中々の戦功ですね。
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曹丕をおぶって逃げる文聘
洞口の戦いでは、曹丕(そうひ)が呉を討とうと自ら進軍します。
三国志演義ではこの戦いで文聘(ぶんぺい)の活躍も描かれます。
魏軍は進軍するために大量の船を用意しており、水路を渡り長江に進軍しました。
ところが、呉軍のいるはずの対岸には、旗指物どころか兵は一人も見られませんでした。
曹丕(そうひ)「こちらに船の用意が無いと侮ったのか?
それとも陣立ても間に合わなかったのか?馬鹿め。」
と思い、侮ってかかります。翌朝深い霧が立ち込めました。
これでは、霧が晴れるまで戦はできません。魏は霧が晴れた時に攻め入ろうと準備しました。
ところが、霧が晴れた途端に、何も無かった対岸には大要塞と大軍勢が並んでいました。
実はこれはハリボテの城と藁人形を配備し
大要塞と大軍勢を演出するという呉の将軍、徐盛(じょせい)の奇策だったのです。
さらに、この時突風が起こり、長江に浮かぶ魏の大船は大風の煽りを受けました。
この時、文聘(ぶんぺい)は曹丕(そうひ)をおんぶして小舟に乗り込み、
自軍側の岸へ逃がすという活躍(?)をします。
この時、同時に蜀が攻め入ってきたとの報があり、魏は退却を余儀なくされます。
手柄らしい手柄ではありませんが、演義では文聘(ぶんぺい)の活躍が描かれています。
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石陽の戦い 文聘VS呉王 孫権
文聘(ぶんぺい)は呉の孫権(そんけん)との戦いも記録されています。
226年、孫権(そんけん)は自ら五万の軍勢を率いて石陽に進軍し、文聘(ぶんぺい)の軍を包囲しました。
守備における功績としては、他に呉の孫権(そんけん)との戦も記録されています。
孫権(そんけん)は自ら五万の軍勢を率いて石陽にて文聘(ぶんぺい)の軍を包囲しました。
孫権(そんけん)の軍の城攻めに対して、文聘(ぶんぺい)は堅牢に守り通しました。
孫権(そんけん)はやむをえず、二十日程度で包囲を解き退却し始めましたが、
敵の撤退を見てとった文聘(ぶんぺい)は追撃して孫権(そんけん)軍を撃退し勝利を収めました。
史実でのこの戦いでは、文聘(ぶんぺい)は空城の計を用いたという説があります。
空城の計は、城が空であると見せて、
敵に既に逃げられていることと戦う相手がいないというように刷り込む計略です。
安心して、城内に攻め入ろうとすると太鼓の音が響き、無数の矢が飛んできます。
伏兵がいたと思った相手は急いで退却するので、これを追撃するという作戦です。
三国志演義で諸葛亮(しょかつりょう)が空城の計を用いますが、
史実で用いた武将は趙雲(ちょううん)と文聘(ぶんぺい)であるとされています。
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三国志ライターFMの独り言
洞口の戦いでの活躍は、小説の三国志演義のみでの話だと思われます。
手柄ではありませんが、演義でのこの役回り、
つまり文聘(ぶんぺい)に曹丕(そうひ)を逃がさせたことは、
以前の主君と国を守りきれなかった文聘(ぶんぺい)に
新しい主君である曹丕(そうひ)を守らせてあげたという著者の計らいでしょうか。
文聘(ぶんぺい)は忠義の士として知られていますが、やはりその実力も本物であったと言えます。
特に守備に関しては、石陽の戦いでは大きな功績を残しています。
空城の計を用いる等、兵法にも通じていることが窺えます。
関羽(かんう)を撃退していることについても、その実力は本物だったのでしょう。
三国志の武将というと張飛(ちょうひ)や関羽(かんう)、呂布(りょふ)等が知られていますが、
そうした知名度の高い武将にも引けを取らない武将は沢山いるということですね。
瀬戸 龍哉 著、玉木尚 編集、三国志全人物事典、株式会社G.B.(2007)
藤井勝彦 著、堀良江 編集、図解 三国志、株式会社新紀元社(2011)
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