【曹操の妨害工作】呂布と袁術の同盟を曹操は恐れていた!

2017年2月8日


 

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袁術 呂布

 

脳みそ筋肉のきまぐれ裏切り男の呂布(りょふ)と、場あたり的で狡賢い

うぬぼれ屋、コンプレックスが強い袁術(えんじゅつ)

曹操(そうそう)に比較すれば、まるで及びもつかないように見える両者ですが、

領地が徐州と揚州で隣り合っていたので、常にくっつく恐れがありました。

曹操は両者が同盟を結ぶのを恐れ、妨害工作をしています。

さて、どのような事をして妨害し、その結末はどうなったのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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揚州に逃げた袁術は常に徐州を欲していた

袁術

 

袁術は匡亭(きょてい)の戦いで曹操に敗れ、本拠地の豫州南陽郡も

劉表(りゅうひょう)に押さえられ、命からがら揚州の寿春(じゅしゅん)に逃げて

根拠地にしました。

しかし、揚州は面積こそ広いもののド田舎、人口も生産力も中原には及ばず

ここだけで天下を狙うのは益州一国以上に心許ないのです。

そこで、袁術は常に徐州にちょっかいを出し続けました。

せめて徐・楊二州はないと天下は覚束ないと考えていたようです。

 

自称皇帝闕宣のイケイケ人生05 陶謙、曹操

 

折しも西暦194年、陶謙(とうけん)が曹操の地雷を踏んでしまい

徐州を荒らされ病死したので、袁術は謀略で徐州を我が物にしようとします。

 

事実、袁術は若い頃からの友人であった陳珪(ちんけい)を家来にしようと、

下邳(かひ)にいた陳珪の息子の陳応(ちんおう)を人質に取ろうとしています。

つまり、袁術は徐州の混乱を良い事に図々しく兵を下邳まで出しているのです。

さすが袁術さん、油断も隙もあったもんじゃありません。

 

反袁術の人々が立ちあがり、劉備を徐州牧に擁立

陸遜 劉備

 

危機感を持った孔融(こうゆう)陳登(ちんとう)、縻竺(びじく)のような

アンチ袁術の人々は陶謙の後継者選定に堂々と介入します。

可哀想ですが、陶謙のボンクラな息子では袁術に対抗できないと踏んだのです。

もちろん、もし息子を牧にするなら支持しない位の事を陶謙に言ったでしょう。

でなければ、陶謙がアカの他人の劉備に牧を譲るなんて言うわけありません。

 

劉備(りゅうび)は、反袁術の人々に担がれて牧になったので

もちろん袁術と和解など出来ない相談になるのです。

こうして袁術が謀略で徐州を手に入れる計略は失敗します。

 

反袁術ではない呂布が徐州に君臨する

裏切り 呂布

 

袁術は劉備と干戈を交えますが、途中、劉備の客将の呂布が反乱を起こして

徐州の州都下邳(かひ)を占領してしまいます。

この反乱には、袁術の誘いがあったようですが、ここでは触れません。

袁術には好機でしたが、呂布は袁術が考えている以上に狡猾で

劉備と和睦して小沛に駐屯させました。

 

劉備を始末したい袁術は紀霊(きれい)を送り込んで劉備軍を包囲しますが、

そこで呂布は劉備の救援要請を容れて戦争に介入し劉備を守ります。

呂布は、袁術の危険性を知っていて、劉備を生かして自分につける事で

盾にしようと考えていたのです。

 

袁術は、当てが外れて悔しがりますが、呂布と全面戦争を考える程に

無鉄砲ではありませんでした。

少なくとも、呂布は反袁術ではなく是々非々で動いているのは明白、

同盟を結ぶ事で呂布の不信を取り去り、劉備を討たせようと考えます。

 

おあつらえむきに、劉備は呂布の反逆を怒り、兵を集めて下邳を攻めようとし

呂布に察知されて逆襲され曹操を頼って落ちていきます。

これは袁術のチャンスであり、即座に呂布に縁組を求めてきます。

 

陳珪、呂布と袁術の仲を裂こうと画策する

袁術 呂布

 

呂布は袁術との同盟に大乗り気でした。

すでに袁術は献帝を無視して帝位についていたのに呂布は無問題でした。

ここに大義名分などどうでもいい呂布の性格が出ています。

 

ですが、ここで呂布の陣営にいた陳珪(ちんけい)が縁組妨害に動きます。

陳珪は袁術と友達でしたが、献帝を擁している曹操にこそ天が味方すると考え、

袁術の仕官要請を断っていたのです。

 

そして、袁術・呂布同盟を阻止すべく、呂布に対して曹操に味方する

メリットと袁術につくデメリットを力説します。

 

呂布は大義名分より目の前の実利に飛び付きますから、すぐに考え直し

一度嫁に出した娘を連れ戻し、迎えに来た袁術の臣、韓胤(かんいん)を捕え

曹操に送りつけて斬首にさせました。

 

袁術はもちろん激怒して呂布に対して兵を起こします。

これで、袁術と呂布の関係はぶっつりキレた・・かのように見えました。

 

袁術を破るも、大将軍橋蕤を釈放してしまう呂布

呂布 最強 曹操

 

袁術は張勲(ちょうくん)や橋蕤(きょうずい)、楊奉(ようほう)、

韓暹(かんせい)など、マイナー・オールスター数万で呂布を攻めますが

陳珪の謀略で楊奉、韓暹等が寝返り、袁術軍は呂布と楊奉、韓暹の挟み撃ちで

全滅してしまいます。

ところが生け捕られた橋蕤は、何故か釈放され袁術の元に戻っています。

 

実は、呂布は陳珪の息子の陳登(ちんとう)を派遣して曹操についた見返りに

徐州牧の正式な地位を求めますが左将軍を与えられただけで貰えませんでした。

 

この時に陳登だけは広陵太守を与えられたので、

呂布は「陳登と陳珪が、結託して俺を売ったのだ!」と怒り

剣で机を叩き斬りますが陳登は少しも慌てず、

 

「曹操は呂将軍を鷹と例えていて、手柄を挙げない間に

餌(領地)を与えると働かないと言っていた」

と呂布を褒めそやして、窮地を切り抜けています。

 

ところで、陳登は、曹操に広陵太守を任されると同時に徐州は任せたと

言われていますが、そこには、呂布のバカと袁術のアホをくっつけるな

という意図も含まれていた事でしょう。

 

褒めそやされて機嫌を直したとはいえ、呂布もそこまでバカではないので、

曹操に不信感を感じ、わざと袁術の配下を殺さず袁術との関係を断たなかったのです。

袁術が生きていれば、曹操も自分を無闇に討伐するまいという

打算が働いていたと感じられます。

 

この辺りも呂布の食えない所ですが、なかなか、

袁術と呂布の関係は切れなかったのです。

 

袁術を恐れた曹操、逃亡した何夔に袁術の消息を確認

曹操

 

曹操は北に袁紹(えんしょう)という強敵がいる関係で

バカにしている割には袁術の動向を恐れていました。

西暦198年、曹操は袁術を逃れて陳郡に逃れてきた何夔(かき)を

司空掾(えん)として採用しましたが、その頃、

袁術が今度こそ危ない!(笑)という伝聞が流れてきました。

 

そこで曹操は何夔に・・

「袁術軍が乱れているようだが本当だと思うか?」

と質問しています。

 

何夔は無難に、易経を引いて、

「袁術は天の道に背いているので天助は得られず乱れるのは当然です」

 

と答えていますが、すでに198年には、グロッキーで崩壊寸前の

袁術の動静を気にしている位ですから曹操は内心では袁術を恐れていたのです。

 

呂布は曹操に反撃され袁術に同盟を打診するが・・

呂布 VS 曹操

 

西暦198年、去就が定まらない呂布は、曹操が荊州の張繍(ちょうしゅう)を

攻めた隙を突いて兗州に手を出しますが、急きょ戻った曹操軍に連戦連敗します。

窮地に陥った呂布は、袁術に援軍を求めます。

197年以来、二度目の袁術&呂布同盟の締結の機運でしたが、

前年に陳の劉寵(りゅうちょう)の領土を乗っ取ろうとして遠征していた袁術は

曹操軍の于禁(うきん)に破られ、兵糧も名だたる将軍も失い

援軍どころではありませんでした。

 

※マイナーですまん!袁術に滅ぼされた陳 劉寵

 

マイナーですまん!袁術に滅ぼされた陳王 劉寵(りゅうちょう)

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こうして、まず呂布が滅ぼされ、翌年には袁術が飢えと渇きの中で、

最期を迎える事になります。

曹操の脅威であった袁術&呂布の同盟は実現しなかったのです。

 

三国志ウォッチャーkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

袁術と呂布が、それぞれのいきさつから曹操と基本的には敵対していた

事実は有名でも、両者が手を結んだ可能性について考える人は少ないでしょう。

しかし、二回目はともかく初回の同盟は、陳珪により阻止されていますし

両者が結び付くのを曹操が恐れたのは事実です。

曹操は、陳登から呂布と袁術がひっつく可能性を指摘されていたようで

恨み重なる呂布を懐柔し、一方で狙いを袁術に絞り確固撃破で対応して、

何とか両者の同盟の締結を阻止しています。

 

もし、両者が目先の利益に左右されず手を組んで、北の袁紹と結べば

曹操の中華統一は、史実以上に困難なものになったでしょう。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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