孫家といえば、孫策(そんさく)、或いは、孫権(そんけん)の下で
一枚岩というイメージがあります。
しかし、事実はそうではありませんで、孫堅(そんけん)の弟の孫静(そんせい)が、
兄との「おら!将軍サなるだ」トラブルで、生前はあまり孫呉に協力的では
なかったりしていました。
また、袁術の配下にも孫家でありながら、最期まで袁家に忠義を尽くした男がいます。
それが、孫堅の再従弟である孫香文陽(そんこう・ぶんよう)です。
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この記事の目次
孫堅の再従弟にあたる孫香
孫香の父は、孫孺(そんじゅ)といい、孫堅の再従弟であたるようです。
若い頃に、孫香は呉郡に出仕して主簿・そして功曹になりました。
功曹というのは、民間の人材を役所にスカウトする職業ですが、
同世代らしき、孫賁(そんほん)が両親を早くに失い、幼い弟を養う為に、
同じ呉郡で督郵(とくゆう)をしていたという記録が呉書、孫賁伝にあります。
もしかして、孫賁の境遇に同情して、功曹の権限で孫賁を
督郵に推挙したのが孫香だったのかも知れません。
確かめようがありませんが、ありそうな話に思えます。
西暦172年、孫堅の挙兵に付従う
西暦172年、17歳で賊退治をするなど、普通じゃない孫堅は、
海運業者の実家を弟の孫静に押しつけて、ビッグになるんだと家を飛び出します。
この時に、孫賁も弟を連れて参加し孫香も従軍しました。
以後、孫堅は、朱儁(しゅしゅん)に従い黄巾賊討伐で手柄を立て、
涼州では、張温(ちょうおん)に従い謀反した辺章(へんしょう)、韓遂(かんすい)を
打ち破り、度々、手柄を立てて長沙大守、烏程(うてい)侯に封じられます。
この間の十数年、孫香も相当な実戦経験を積んだのでしょう。
いつ頃かは分りませんが郎中(ろうちゅう)に推挙されています。
兎に角、孫堅のキャリアは並みではなく、曹操(そうそう)や劉備(りゅうび)が
黄巾賊を相手にする、はるか12年前から戦いの経験を積んでいるのです。
孫堅が黄祖の伏兵で戦死、再び袁術を頼る
西暦189年、董卓(とうたく)が洛陽を陥れると孫堅は董卓側にはつかず、
反董卓連合軍の袁術(えんじゅつ)に従います、そして陽人の戦いで董卓軍を撃破し
華雄(かゆう)を討ち取り、董卓軍が洛陽から長安に移る原因を造ります。
キャリア抜群で向かう所敵無しの孫堅ですが、191年頃、油断したのか
袁術の命令で劉表(りゅうひょう)と争った時に、黄祖(こうそ)の伏兵から
矢をハリネズミになる程に受けて壮絶な戦死を遂げました。
大黒柱を失った孫堅の軍勢は、孫賁を後継者として、孫堅の柩を葬ります。
当初、呉景の一族と通婚関係にある、曲阿の劉繇に帰属するつもりだったようですが、
関係悪化、寿春に移った袁術の加勢をした孫賁が再び袁術に用いられるようになります。
恐らく、孫香もこれに参加したのでしょう、同じく孫家系の将には、
孫堅の遺児である孫策、それに母方の呉夫人の弟、呉景(ごけい)がいます。
孫策が頭角を現し、袁術軍の主力になる
孫賁、呉景、孫香は、同じく漢王朝に揚州刺史に任命された
因縁がある劉繇(りゅうよう)との激闘に入ります。
劉繇側には、太史慈(たいしじ)などの猛将がいて、孫賁、孫香は
大苦戦し、なかなか勝てません。
そこで、出てきたのが孫策で、彼の加勢でさしもの劉繇も退却し、
孫策は孫家のリーダーの地位を孫賁から奪い取る事になります。
しかし、上昇志向が強い孫策は、孫賁、呉景、孫香を寿春に帰還させた後も
江東に留まり、孫堅の弟の孫静の力を借りて、会稽大守の王朗(おうろう)を降し、
独立の構えを見せていきます。
孫香、孫策の呼びかけを無視し、袁術につく事を決意する
江表伝によると、劉繇を放逐した袁術は、呉景を広陵太守、孫賁を
九江(きゅうこう)大守、孫香を汝南(じょなん)大守に任命しています。
袁術、ケチにならず命がけで戦った事に応えて相応に遇しています。
しかし、この頃、王朗を降した孫策から一族に手紙が届きます。
簡単に言うと、袁術につくか?俺につくか選べという内容です。
呉景と孫賁は、皇帝を自称した袁術を見限り、孫策に走りますが、
汝南大守の孫香は動かず、袁術の下に留まりました。
そして、呉書によれば、その後も袁術に尽くし征南将軍に昇進して寿春で死にました。
生没年は不詳ですが、もしかすると、呂布討伐戦や陳を巡る曹操軍との戦いにも
密かに参加していたのかも知れません。
三国志ライターkawausoの独り言
江表伝によれば、孫香は汝南にいるので遠過ぎ、孫策の手紙に応えられなかった
とされていますが、果たしてそうでしょうか?
実際には、袁術に個人的に忠義や恩義を感じて、留まったのではないでしょうか?
江表伝は、徹底して袁術をコケにしていますが、それは後付けであり、
197年の正月に皇帝を自称しても、袁術は199年8月までは生きているのですから、
その間、皇帝袁術の将として誇りを持って帝業を支えた将もいたのです。
その一人が孫香だった、そういう事ではないでしょうか?
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我ながらすごい!今後もはじさんは、マンパワー全開で
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