孫静(そんせい)とはどんな人?兄貴、孫堅とはゼッコーモン!ひたすら故郷を守った孫一族

2017年2月23日


 

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孫権と張昭

 

劉備(りゅうび)の蜀や曹操(そうそう)の魏と違い身内の内紛が多かった孫呉ですが、

これらは何も孫権(そんけん)の時代に始まった事ではありませんでした。

その起源は、放蕩息子の孫堅(そんけん)が故郷を飛び出した時から始まっていたのです。

立身出世を求めて、袁術(えんじゅつ)に仕え、董卓(とうたく)討伐で

名を挙げた兄、孫堅、一方、そんな兄を恨みながら故郷をまとめた男がいました。

それが孫静(そんせい)でした。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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商家の孫家に生まれた、三人兄弟の末っ子の孫静だが・・

25-8_孫静

 

孫静幼台(そんせい・ようだい)は、生没年不詳、呉郡富春県に生まれます。

 

父は孫鐘(そんしょう)といい、詳細は不明ですが、

17歳の孫堅が銭唐で海賊を退治した逸話がありその功積で

県の仮の尉にされたとある事から考えると、

元々は海運業を営む商人で無官だったような感じです。

 

孫鐘には、孫羌(そんきょう)、孫堅、孫静という男子がいましたが、

孫羌は幼い子供を残し早く死んでしまい、孫家の家督は

次兄の孫堅が継ぐ運びになっていました。

このまま、事態が進めば、孫静の気苦労は無かったのです。

 



兄、孫堅が家を飛び出す!俺はビッグになるんだ!

孫堅

 

しかし、17歳で海賊退治をしてしまう英雄気質の孫堅は、

塩辛臭い海運業者、孫家を継ぐつもりなどさらさらありませんでした。

 

孫堅「幼台!俺は塩辛臭い商人になんかならんぞ!

中央に出て、ビッグな将軍になるんだ!」

 

孫静「何を言うんだい、文台兄さん!そんな事になったら、

孫家は一体、誰が率いたらいいんだよ」

 

孫堅「そんなもの知らん! 潰すなり、お前が継ぐなりしろ!」

 

孫静「ヒドイや、あんまりだよ兄さん!!」

 

こうして孫堅は西暦172年、会稽の妖賊、許昌(きょしょう)が、

陽明皇帝を自称して、数万の兵を集めて蜂起した時に郡司馬として

数千の精兵を集めて、出撃、これを撃破しています。

 

以来、孫堅は二度と、故郷富春に帰る事はありませんでした。

 

孫静は孫堅と絶交し、自分が孫家を纏める決意をする

25-9_孫堅と絶交をする孫静

 

自分勝手に飛び出していった孫堅は、兄、孫羌の子である、

孫賁(そんふん)、孫輔(そんほ)、それに孫香(そんこう)というような

賛同者と自身の家族も引き連れて故郷である富春を去ります。

 

それは事実上の孫静との絶縁宣言でした。

 

「もういい!勝手にするがいいさ!その代わり、

兄さんの家族の面倒なんか見ないからね!」と

孫静が言ったのでしょう。

 

以後、呉郡、富春の頭領は、末っ子の孫静になりました。

孫家は、五・六百人という大所帯でしたし、途中から孫堅は、

反董卓連合軍にも参加したので、親董卓派の攻撃を避ける為に、

孫家は、土塁を築いて武装する羽目になります。

 

孫静の気苦労は絶えなかった筈ですが、

それでも、孫堅の弟だけあり見事に一族をまとめて頑張り

呉郡に一定の勢力を保つようになったのです。

 

関連記事:江東の虎・孫堅が次世代の息子たちに残したものとは?

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兄は死に、兄の子、孫策が孫静へ手紙を届ける

孫堅

 

西暦191年頃、将軍として数々の武功を挙げた孫堅は、

劉表(りゅうひょう)との襄陽の戦いで非業の最期を遂げます。

 

孫堅の柩は後継者の孫賁に曳かれて曲阿で葬られます。

一度自分勝手で飛び出した手前、おめおめ富春に戻る事は

孫賁には出来なかったのでしょう。

 

その知らせは孫静にも届いたでしょうが、

愛憎重なる、兄の死について彼の感想は残っていません。

しかし、これで兄との関わりも終わったと思っていた、

西暦195年、兄の子である孫策(そんさく)から、

孫静への手紙がもたらされたのです。

 

王朗討伐に孫策は孫静の兵力を借りに来た・・

孫策

 

西暦195年、小覇、孫策は、孫賁、呉景(ごけい)と協力し、

破竹の快進撃で膠着状態だった劉繇(りゅうよう)を撃破しました。

 

袁術(えんじゅつ)から離れて独立を志向する孫策ですが、

頼みの呉景、孫賁は、袁術の帰還命令を受けて寿春に帰ります。

これで大幅に兵力を減らした孫策は、会稽の王朗(おうろう)を攻略しようとしますが

固陵(こりょう)で阻止され、いくら頑張っても勝つ事が出来ません。

 

さしもの小覇王も鍛えられた孫賁や呉景の援護なしには、

勝利は覚束ないと考え、兄と絶交した孫静を頼ったのです。

 

孫静、甥にアドバイスをして王朗を撃破する

25-10_孫策に手紙でアドバイスをする孫静

孫策は西暦175年の生まれなので、孫堅が富春を去ってから

生まれた子供という事になります。

 

「そうか、、あの自分勝手な文台兄さんに子供がいたのか・・」

 

兄は憎いものの、その息子には何の罪もありません。

孫静は、孫策の要請に応えて一族を引き連れて銭唐で合流します。

 

そこで、孫静は、堅牢な固陵を正面攻めしている孫策の

いちかばちか戦術を目にして戦慄します。

 

(ダメだ!・・伯符は放置すれば兄と同じ運命になるッ)

 

そこで、孫静は、孫策に対して言いました。

 

孫静「王朗は険阻を頼んで城を守っています。

即座に打ち破るのは難しいので、まず查瀆(さとく)を取りましょう。

查瀆は、ここを南に去ること数十里で、しかも道の要衝ですから

そこから、固陵の内部に拠るのがベターです。

兵法にも、敵の備えの薄い場所を攻め、

敵の虚を突いてこそ勝利を得る事が出来るとあります

私が軍を率いて、先導いたしましょう。」

 

孫策「なるほど!叔父さん、それは上策です!」

 

孫静は、そこで、水が悪くて兵が腹を壊しているから、

水ガメに水を貯めて清水を得るように布告を出し、

孫策が一時、休戦するかのように見せかけつつ、

夜中には、沢山の松明を焚いて、王朗を油断させ、

 

真夜中に查瀆への道を駆けにかけて、高遷(こうせん)にあった軍屯を襲いました。

驚いた王朗は、丹楊太守周昕(しゅうきん)を出撃させて孫策を討とうとしますが

逆に撃破され、周昕は斬り殺され、王朗は恐れて会稽から逃亡、

こうして、孫策は自前の拠点、会稽を得たのです。

 

やっぱり、孫策とは合わず、富春を守って世を去る

孫策の人生に一辺の悔い無し

 

孫策は、孫静の尽力に感謝し、奮武校尉(ふんぶこうい)として責任ある地位を

与えようとしますが、やはり孫静は、留守にしている呉郡の富春が心配でした。

やはり、守勢タイプの孫静には、大地を血に染めながら驀進(ばくしん)する孫策は、

兄孫堅のように好きにはなれなかったようです。

 

度々、官職を辞退して先祖の墓を守らせてくれと懇願する孫静に、

孫策は従うしかありませんでした。

 

その後、孫権が政権を掌握すると、孫静は官について、

昭義中郎将に移りますが、子供の定武中郎将孫暠(そんこう)が

孫策の死後に、孫呉で権力を握ろうとして烏程から兵を率いて

会稽を落そうとして虞翻(ぐほん)に説得されて思い留まった事があり、

それで孫静も罪に問われ、官職を失い最後は無官で死去しました。

孫堅の弟は、無位無官の平民、塩辛臭い海運業者の隠居として死んだのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

最後まで、孫策、孫権政権に消極的にしか協力しなかった孫静ですが、

彼の子孫からは、孫峻(そんしゅん)、孫綝(そんちん)が出て、

呉帝、孫亮(そんりょう)の時代に諸葛恪(しょかつかく)を誅殺して

幼帝を操り独裁的な権力を振う事になります。

 

結局、廃位された孫亮の跡を継いだ、呉帝、孫休(そんきゅう)により、

孫綝は誅殺され、あまりの専横から、姓も胡(こ)に替えられ、

一族もすべて胡姓にされて孫家から絶縁されます。

 

なんだか、自分勝手な孫堅を孫静が絶交した事が因果が巡り、

逆に、孫静の一族が孫堅の一族によって絶交される形になったようで

歴史の皮肉を感じますね。

 

ところで、劉備や呂布ではありませんが、何度も浮き沈みを経験した、はじめての三国志も

2017年1月をもって、95万PVに到達しました。

これも読者の皆さんのお陰です、念願の100万PVまであと一歩です。

今後もはじめての三国志をよろしくお願いします。

 

関連記事:【劉孫同盟誕生秘話】孫呉の内部は新劉備派と反劉備派に割れていた

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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