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【シミルボン】本当は凄い!黄巾賊を滅ぼし後漢を支えた三将軍とは?

2017年3月19日


 

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シミルボン

 

※こちらの記事は「シミルボン」に配信されているコンテンツです。

 

 

黄巾の乱というと、劉備(りゅうび)三兄弟や曹操(そうそう)の活躍が

注目されてしまいますが、実際の彼等は、戦いの一部を担っただけで全体を統括して

戦ったというわけではありません。

本当に黄巾賊とぶつかり、それを打ち破ったのは、皇甫嵩(こうほすう)、

朱儁(しゅしゅん)、盧植(ろしょく)という後漢を延命させた三将軍だったのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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後漢を代表する最期の名将 皇甫嵩

 

皇甫嵩がいなければ、三国志の時代を見るまでもなく、黄巾賊により後漢は倒され

太平道の王朝が出来ていたと言っても過言ではありません。

皇甫嵩は、若い頃から慈悲深く才能に溢れていましたが、推挙されても中々応じず

霊帝(れいてい)が公車を出して迎えたので断り切れず出仕しました。

 

184年、黄巾の乱が勃発すると、右往左往する朝廷に対して、

党錮(とうこ)の禁の解禁、そして、霊帝が溜めこんだ私財を放出して

軍事費にする事を進言し容れられます。

 

党錮の禁とは、これより20年ほど前、宦官の腐敗政治に抵抗した清流派の官僚を

宦官勢力が大弾圧して、地方に閉じ込めて仕官させなかった事件ですが、

皇甫嵩は、これを解く事で豪族である彼等が黄巾賊に協力する事を阻止して

人材を確保すると同時に、霊帝が得た売官による銭で軍隊を拡充したのです。

 

事実、このふたつの手配がないなら、官軍が黄巾賊相手に善戦出来たかは疑わしく

後漢は、あっさり倒されていた可能性が高いのです。

 

将軍としても有能、ほとんど一人で黄巾賊を片づける

 

将軍としても優秀な皇甫嵩は、左中郎将として、4万の軍勢を率い、右中郎将の

朱儁と協力し、潁川(えいせん)、汝南(じょなん)、陳郡、東郡の黄巾賊を鎮圧していき、

黄巾賊の本拠地である冀州では、苦戦している盧植や董卓(とうたく)の軍勢を助け奮戦。

教祖、張角(ちょうかく)の弟である張宝(ちょうほう)張梁(ちょうりょう)の軍勢を撃破し、

死んでいた張角の墓を暴いて、首を洛陽に届けたり、黄巾賊10万を

斬って、その首を積みあげるなど徹底した武断を示して、黄巾賊の士気を削いでいき

反乱の鎮圧に大きな功積がありました。

黄巾賊の本拠地や、その周辺地域を掃討し、結果として、張角、張宝、張梁を

打ち破るなど大半の黄巾賊は皇甫嵩が倒しているのです。

 

孫堅を見出し、黄巾賊の残党を掃討するいぶし銀 朱儁

 

朱儁は、幼い頃に父が死に、母の内職で苦学したという苦労人でした。

その為か、いつでも正攻法の皇甫嵩とは違い、世慣れた所があり、知り合いの

周規(しゅうき)が三公に招聘されて中央に行く時、金品が足りない彼に、

母には無断で家の財産を持ちだし、与えるような事をしています。

母からは、責められますが朱儁は「小さな損失が大きな見返りを産む」と弁解しました。

また、賊討伐に失敗した尹端(いたん)という人物が揚州刺史の上奏で死刑とされると、

朱儁は洛陽まで行って、各方面に賄賂を送り、決定を島流しに変更させます。

尹端は喜びますが、減刑を嘆願した人物が朱儁であった事はついに分らず仕舞いでした。

 

178年、交趾の反乱が長引くと朱儁は、交州刺史に任命されます。

ここで朱儁は故郷で五千の兵を集めると、よくよく交州の状況を偵察して実情を掴み

二方面から堂々出陣して反乱軍の士気を挫き、バラバラだった交州七郡の兵力を

結集して賊将の梁龍(りょうりゅう)を斬り、長引いた乱を平定、

千五百石戸の都亭侯に封じられ諌議(かんぎ)大夫に昇進します。

 

皇甫嵩に次ぐ二番手として黄巾賊を討伐する

 

西暦184年、黄巾の乱が勃発すると、皇甫嵩と共に右中郎将として

4万の軍勢を率い各地を転戦、この頃、同じ揚州出身の孫堅(そんけん)を

召し出しています。

孫堅が黄巾賊に関わる原点は、この朱儁だったのです。

 

さらに、南陽を拠点とする黄巾の実力者の趙弘(ちょうこう)を

司馬の張超(ちょうちょう)や荊州刺史徐璆(じょきゅう)、南陽太守秦頡(しんけつ)と

共に長期間の包囲戦の後に降伏させました。

 

さらに趙弘の残党で逃亡して宛に拠った韓忠(かんちゅう)を降参させ斬り捨てると、

立て籠った孫夏(そんか)も滅ぼし南陽黄巾賊を崩壊に追いこむ大手柄を立てました。

 

その後、母の喪に服し一度官を辞任しますが、再び中央に召集されて将作大匠、

少府、太僕と九卿の要職を歴任していきます。

その後、張角を失った黄巾の残党は、統制を失い各地で蜂起、合せて便乗した

大小の山賊も盛んになり、黒山賊の張燕(ちょうえん)は一時朝廷に降伏していましたが

時流を読んで反旗を翻し洛陽を脅かす動きをします。

 

朱儁は河内太守に転出し、張燕を退却させる手柄を立て再び光禄大夫に任命され、

城門校尉、河南尹(かなんいん)に転任していきました。

 

皇甫嵩程ではないですが、要所、要所を締めて、黄巾賊を洛陽に近づけない

確かな手腕は名将と評価されて然るべきでしょう。

 

張角の首を取る筈が、宦官に恨まれた盧植

 

盧植は、劉備と同じ幽州涿郡涿県の出身です。

身長195センチという大柄な人物で、よく通る声を持っていました。

鄭玄(ていげん)と共に外戚(がいせき)の馬融(ばゆう)に学問を学びますが、

馬融は享楽主義者で学問の最中にも踊り子を侍らせていました。

それでも盧植は若いにも関わらず色香に惑う事もなく

真面目に学んだので、馬融は盧植に敬意を持ったと言われています。

 

やがて博識を謳われるようになりますが、天下を救うという志を持った盧植は、

生半可な俗人には仕えず、引く手数多の中でも仕官を断り続けていました。

建寧年間に大学の博士になり、西暦175年、九江蛮が反乱を興すと、

四州から推挙されて九江大守になり、数年で乱を鎮圧しています。

 

その後、病を得て大守を辞めて田舎に戻り、学舎(塾)を経営し出すと、

集まる弟子は数千人という大繁盛で、その中には無名時代の公孫瓚(こうそんさん)や、

劉備が含まれています。

 

張角を降伏寸前まで追い詰めるが清廉さが災いし投獄・・

 

西暦184年、黄巾の乱が起きると、盧植は再び四府からの推挙を受けて

北中郎将に任命され、護烏桓(うがん)中郎将の宗員(そういん)を副官とし、

北軍五校士の将軍とされて天下諸郡の兵を集め、反乱軍の指導者である

張角の討伐に向かいます。

 

盧植の軍は強く、張角軍を大いに破って、賊兵一万人以上を斬る功績を立てます。

これを受けて、張角は広宗に敗走、盧植はこれを包囲し雲梯を使って攻め立てます。

順調に行けば、これで勝負ありですが、そこへ左豊(さほう)という監察がやってきて

盧植に賄賂を要求しますが、清廉な盧植はこれを拒否しました。

 

左豊はこれを恨んで、「盧植は包囲するだけで戦わない」と讒言し、

それを信じた霊帝は怒り盧植は罪人に落され、すべての官職を剥ぎ取られます。

 

盧植が抜けた穴は皇甫嵩が埋めて、冀州の黄巾賊を撃破して、病死した張角の

墓を暴いて首を斬り、さらに張宝、張梁を破って乱を鎮圧します。

その際に、皇甫嵩は手柄を独り占めせず、盧植の功積を称えたので、

盧植は許されて、尚書に復職しています。

 

左豊の讒言さえなければ、彼こそ黄巾賊討伐の一番手柄になったのに、

腐敗した王朝では、真面目な将軍がやっていくのは大変です。

 

参考文献:漢書/後漢書/三国志列伝選

著者: 出版社: 平凡社

董卓が政権を握った後の3名の運命・・

 

皇甫嵩、朱儁、盧植の晩年は、それぞれ共通点がありました。

いずれも董卓の政権下では優遇されなかったのです。

 

皇甫嵩は、董卓の作戦を悉く退けて反乱軍に勝った関係で董卓に恨まれ、

董卓が洛陽を掌握すると招集され殺されかけますが、周囲の嘆願で許され

その後は董卓配下として屈辱的な扱いを受けつつ生き延びます。

王允(おういん)と呂布(りょふ)政権では再び帰り咲きますが、

李傕(りかく)と郭汜(かくし)の軍が入ってくる頃に病を得て戦えなくなり

西暦195年に病没します。

 

朱儁は、反董卓を貫いて、独自に董卓を討とうと軍を興しますが、

董卓が洛陽に駐屯させた李傕・郭汜軍に勝てませんでした。

その後、王允と呂布の短い政権の後に、李傕・郭汜が長安を支配すると、

献帝の勅命に従って、李傕・郭汜の軍門に下り、両者を内部から操つり、

献帝を守ろうとしますが上手く行かず、長安で内乱が勃発、李傕に人質にされて

不満が爆発し病を発して、195年に亡くなります。

 

盧植は、何進に宦官賊滅を進言していたので、何進が仲常侍に暗殺されると、

袁紹(えんしょう)、袁術(えんじゅつ)と共に宦官皆殺しに加わり、

宮殿の前で大斧を持ち仁王立ちし、帝をつれて逃げようとする仲常侍の前に

立ちはだかっています。

 

その後、董卓が献帝を奉じて独裁権力を握ると、臆する事なく反対意見を述べ

激怒した董卓に殺害されそうになりますが、周囲の助命嘆願で命は助けられます。

洛陽に長居出来ないと感じた盧植は逃亡、董卓の追手を振り切り、最期には、

袁紹の配下になりますが192年には病没しました。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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