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五虎大将軍 趙雲の死因は何だったの?三国志一の美男子の最期

2017年6月26日


 

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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・あの人の最期」のコーナーです。

 

 

戦国の時代に生きる男たちの死にざまは人それぞれです。首を敵将に討ち取られる者もいれば、乱戦の中で討ち死にする者、味方の謀叛で命を落としたり、暗殺される者もいます。畳の上(中国の場合は寝台の上という言い方でしょうか)で安らかに生涯を閉じる者もいれば、自害する者、処刑される者もいます。英雄的な死に方というのはなかなか難しいようです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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有名な英雄の最期は?

 

三国志の登場人物で超メジャーどころの最期はどのようなものでしょうか。

曹操・・・220年に病没

劉備・・・223年に病没

孫権・・・252年に病没

諸葛亮孔明・・・234年に病没

司馬懿・・・251年に病没

周瑜・・・210年に病没

関羽・・・219年に処刑

呂布・・・198年に処刑

孫策・・・200年に襲撃に遭い病没

陸遜・・・245年に自害に追い込まれるようにして病没

荀彧・・・212年に自害

張飛・・・221年に暗殺

馬超・・・222年に病没

 

自分の寿命が短いことを悟る孔明

 

こうして見ると病没した英雄が多いですね。ちなみに諸葛亮孔明が病没したのは五丈原の戦いの際の陣中です。日本では徳川家康や豊臣秀吉は病没ですね。織田信長は自害。豊臣秀頼も自害でしょうか。真田信繁(幸村)は戦場で討ち死に(最終的には自害)ですね。

 

趙雲の最期は?

 

「子龍は一身これ胆なり」と評価された蜀の五虎大将軍のひとり、趙雲子龍の最期はどのようなものだったのでしょうか。趙雲といえば北の雄・公孫瓚に仕えていた頃から戦場で活躍している歴戦の名将です。

 

 

長坂坡の戦いでは劉備の赤子・劉禅を救出しました。荊州南部の平定でも武功をあげ、益州侵攻にも参加しています。漢中争奪戦では大きな功績をあげています。さらに諸葛亮孔明が率いる北伐にも参加しているのです。40年近く戦場を駆けまわっていたことになりますね。これだけの活躍をした趙雲ですが、その最期の場面は実にあっさりです。

 

西暦229年 趙雲死去

寿命を全うした70歳の趙雲

 

229年第三次北伐に際して趙雲の長子・趙統と次子・趙広が諸葛亮孔明に父親の死を告げます。馬超同様にフェードアウトするようにして趙雲も消えていくのです。関羽の死後から10年の時が過ぎていました。この間に蜀の五虎大将軍は全員この世を去ることになったのです。229年は呉の孫権が皇帝に即位した年でもあります。

 

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突然の病没、その死因は?

 

趙雲がどのような病で亡くなったのかという記載はありません。これだけ戦場で無理をしていたのですから、かなりの負担が身体にあったのではないでしょうか。趙雲が戦場で怪我を負ったという話は聞いたことがありませんので、負傷からの病死ということはなさそうです。その亡骸は銀屏山に葬られ、息子たちがその山の守りについたと伝わっています。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

ろひもと理穂さん02b 背景あり

 

三国志の中の人気でも一二を争う趙雲ですが、三国志「正史」、三国志演義ともにその最期は簡潔です。脚色の目立つ三国志演義ですら特に何のエピソードありません。息子たちが趙雲の死を報告するだけです。そう考えると三国志の英雄たちの中で、戦場で華々しく散った例は珍しいのかもしれません。魏の夏侯淵龐徳、袁紹配下の顔良文醜、董卓配下の華雄、袁術配下の紀霊、孫権配下の凌操、それに君主格では孫堅、鮑信くらいなのではないでしょうか。

 

ちなみに三国志演義では太史慈や黄忠、徐晃なども戦場で散っていますね。無敵の武勇を誇り、冷静沈着な趙雲の最期はやはり静かに亡くなっていくのが似合っているのかもしれません。北伐に参加して諸葛亮を守るために討ち死に・・・なんていうシーンがあってもいいとは思いますが。皆さんはどうお考えですか。

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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