ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・あの人の最期」のコーナーです。
戦国の時代に生きる男たちの死にざまは人それぞれです。首を敵将に討ち取られる者もいれば、乱戦の中で討ち死にする者、味方の謀叛で命を落としたり、暗殺される者もいます。畳の上(中国の場合は寝台の上という言い方でしょうか)で安らかに生涯を閉じる者もいれば、自害する者、処刑される者もいます。英雄的な死に方というのはなかなか難しいようです。
関連記事:劉備と趙雲が出会う事になったきっかけを作ったのは袁紹のおかげ?
有名な英雄の最期は?
三国志の登場人物で超メジャーどころの最期はどのようなものでしょうか。
・曹操・・・220年に病没
・劉備・・・223年に病没
・孫権・・・252年に病没
・諸葛亮孔明・・・234年に病没
・司馬懿・・・251年に病没
・周瑜・・・210年に病没
・関羽・・・219年に処刑
・呂布・・・198年に処刑
・孫策・・・200年に襲撃に遭い病没
・陸遜・・・245年に自害に追い込まれるようにして病没
・荀彧・・・212年に自害
・張飛・・・221年に暗殺
・馬超・・・222年に病没
こうして見ると病没した英雄が多いですね。ちなみに諸葛亮孔明が病没したのは五丈原の戦いの際の陣中です。日本では徳川家康や豊臣秀吉は病没ですね。織田信長は自害。豊臣秀頼も自害でしょうか。真田信繁(幸村)は戦場で討ち死に(最終的には自害)ですね。
趙雲の最期は?
「子龍は一身これ胆なり」と評価された蜀の五虎大将軍のひとり、趙雲子龍の最期はどのようなものだったのでしょうか。趙雲といえば北の雄・公孫瓚に仕えていた頃から戦場で活躍している歴戦の名将です。
長坂坡の戦いでは劉備の赤子・劉禅を救出しました。荊州南部の平定でも武功をあげ、益州侵攻にも参加しています。漢中争奪戦では大きな功績をあげています。さらに諸葛亮孔明が率いる北伐にも参加しているのです。40年近く戦場を駆けまわっていたことになりますね。これだけの活躍をした趙雲ですが、その最期の場面は実にあっさりです。
西暦229年 趙雲死去
229年第三次北伐に際して趙雲の長子・趙統と次子・趙広が諸葛亮孔明に父親の死を告げます。馬超同様にフェードアウトするようにして趙雲も消えていくのです。関羽の死後から10年の時が過ぎていました。この間に蜀の五虎大将軍は全員この世を去ることになったのです。229年は呉の孫権が皇帝に即位した年でもあります。
【はじさん編集部】編集長kawausoの奮闘日記も絶賛公開中!
突然の病没、その死因は?
趙雲がどのような病で亡くなったのかという記載はありません。これだけ戦場で無理をしていたのですから、かなりの負担が身体にあったのではないでしょうか。趙雲が戦場で怪我を負ったという話は聞いたことがありませんので、負傷からの病死ということはなさそうです。その亡骸は銀屏山に葬られ、息子たちがその山の守りについたと伝わっています。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
三国志の中の人気でも一二を争う趙雲ですが、三国志「正史」、三国志演義ともにその最期は簡潔です。脚色の目立つ三国志演義ですら特に何のエピソードありません。息子たちが趙雲の死を報告するだけです。そう考えると三国志の英雄たちの中で、戦場で華々しく散った例は珍しいのかもしれません。魏の夏侯淵・龐徳、袁紹配下の顔良・文醜、董卓配下の華雄、袁術配下の紀霊、孫権配下の凌操、それに君主格では孫堅、鮑信くらいなのではないでしょうか。
ちなみに三国志演義では太史慈や黄忠、徐晃なども戦場で散っていますね。無敵の武勇を誇り、冷静沈着な趙雲の最期はやはり静かに亡くなっていくのが似合っているのかもしれません。北伐に参加して諸葛亮を守るために討ち死に・・・なんていうシーンがあってもいいとは思いますが。皆さんはどうお考えですか。
関連記事:もし趙雲が魏に仕えていたらどうなっていた?【ろひもと理穂if考察】
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—