待て
あわてるな
これは孔明の罠だ
横山光輝『三国志』では曹操や司馬懿が異常なほど警戒していた孔明の罠。
『三国志』を知るよりもはやく
インターネットの片隅でこの言葉に出会った人もいるでしょう。
孔明とは諸葛亮孔明のこと。
蜀の劉備に仕えた稀代の天才軍師です。
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草廬に潜む伏龍
曹操に敗れて荊州の劉表の元に落ち延びていた劉備。
久しぶりに戦いとは縁遠い穏やかな日々を送っていたものの、
同じ頃旗を揚げた曹操には随分と差をつけられ焦り始めます。
そんな時、劉備の元に出入りしていた客人の徐庶が
荊州に潜む大賢人の話を持ってきたのです。
「私の友人に伏龍、もしくは臥龍と称される大賢人がいます。
彼は晴耕雨読の日々を送り、草ぶきのあばら家で寝起きしていますが、
梁父吟を口ずさみながら、真に仕えたいと思う主君を待ち望んでいるのです。」
この伏龍こそが諸葛亮孔明でした。
これを聞いた劉備はすぐにでもその伏龍に会いたいと目を輝かせます。
しかし、徐庶は自分が呼んだくらいで来てくれるような人物ではないと言います。
そこで、劉備は直々に伏龍の草廬を訪れることにしたのでした。
三顧の礼により迎え入れられる
さっそく伏龍先生を訪ねる劉備でしたが、
関羽も張飛も「二回りも年下の奴に何でこんなに礼を尽くすんだ…」と不満げ。
それでも劉備はこれから出会う伏龍先生を思いワクワクしていたのでした。
しかし、一度目はからぶり。
日を改めて訪れても伏龍先生に会えません。
弟の諸葛均には会えたのですが、お目当ての諸葛亮は不在。
張飛も関羽もイライラ…。
それでも懲りずに再び戸を叩く劉備。
なんと今度はお昼寝タイム!
張飛は諸葛亮を叩き起こす!と息巻きますが、
劉備はそれをなだめて諸葛亮が起きるのを静かに待ちました。
劉備が無位無官の自分のためにここまで礼を尽くしてくれたことに
諸葛亮は感銘を受け、劉備に仕えることを決意します。
諸葛亮は劉備亡き後その子・劉禅を叱咤激励するために認めた銘文「出師の表」にも
この出来事を「三顧の礼」として記しています。
■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■
天下三分の計を唱える
伏龍を起こすことに成功した劉備は、さっそくどのようにして曹操を倒し、
漢王朝を再興すればいいのかを諸葛亮に尋ねます。
諸葛亮は、
「まず天下を3つにすることです」
と答えます。
その頃中国大陸に存在していた大きな勢力6つほど。
曹操、孫権、劉表、劉璋、張魯、馬超・韓遂といった面々でした。
劉備はそのとき劉表が治める荊州にいましたが、
諸葛亮はその覇権を奪い取り、隣の劉璋が治める益州も奪い取ることを勧めます。
おそらく曹操や孫権もじきに他勢力を飲み込むだろうということで、
劉備・曹操・孫権の3人で天下を3つに分けることを提唱。
最終的には、孫権と手を組み曹操を滅ぼし、
機を見て孫権も滅ぼして漢王朝を復興しようと唱えたのです。
劉備は諸葛亮の知見の深さに驚嘆するばかり。
ますます諸葛亮に惚れ込んでいったのでした。
主君亡き後も蜀に尽くす
ようやく巴蜀を手中に収め、描いていた天下三分の図を完成させた諸葛亮。
しかし、関羽・張飛を立て続けに失い、部下の諫言を聞き入れずに
夷陵の戦いで大敗を喫した劉備は衰弱していきます。
死の間際、劉備は諸葛亮に次のように伝えたと言います。
「君は魏の曹丕なんかとは比べ物にならないくらいの天下を治める才がある。
おそらく後世に残るような大事を成し遂げるだろう。
もし、我が子・劉禅が皇帝として仕えるのに十分な人物であれば補佐してくれ。
しかし、天下の器でないようなら、君が我が子に代わって国を治めてくれ。」
諸葛亮は目から涙をこぼし
「蜀のために手足となって働きます」
とだけ答えました。
蜀の君主として君臨する気など毛頭無く、
蜀の臣として蜀に尽くすことを固く誓ったのです。
死せる孔明、生ける仲達を走らす
劉備の息子・劉禅は皇帝として即位したのですが、
劉備を全体的に弱らせたような頼りない存在でした。
遊び好きな劉禅は父の悲願であった漢王朝の再興などそれほど興味が無かったのでしょう。
一方、劉備の想いを受け継いでいる諸葛亮は北伐を決行します。
このとき、諸葛亮は劉禅に「出師の表」を認めたのです。
後世、これを読んで泣かない者はいないほどだと絶賛された銘文でした。
しかし、数々の戦を勝利に導いてきた諸葛亮も、
寄る年の波には勝てませんでした。
五丈原の戦いの最中に病に伏します。
当時魏に仕えていた司馬懿はその死を察知して蜀軍に攻め込みました。
しかし、逃げ惑うかと思われた蜀軍は反撃の姿勢を見せたのです。
これに驚いた司馬懿は、諸葛亮にまんまと騙されたと勘違いして狼狽えたのでした。
この出来事がきっかけで
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」
という言葉が生まれたのです。
『三国志演義』では更なる活躍を見せる諸葛亮孔明。
その奇才ぶりは数千年経っても色褪せることなく語り継がれるでしょう。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
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