『三国志』随一の女好きともいえる曹操は、たくさんの女性を妻に迎え、多くの子を設けました。その中でも異彩を放っていたのが環夫人です。彼女が他の夫人と一線を画す理由とは?今回は環夫人について紹介したいと思います。
大虐殺の最中見出された環夫人
黄巾賊を蹴散らし、メキメキと力をつけていった曹操。そんな彼が袁紹と手を組み、袁術や公孫瓚と争っていた頃に、とある事件が起こります。なんと、陶謙によって、父・曹嵩をはじめとする一族を皆殺しにされてしまうのです。
これに怒り狂った曹操は復讐を決意し、50万の兵を率いて徐州に襲い掛かります。川には何十万もの死体が転がり、鶏や犬の鳴き声さえも聞こえなくなってしまったという徐州。環夫人はこの大虐殺の最中に曹操の側室として迎え入れられました。
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3人の男児を授かる
環夫人は曹操との間に曹沖・曹據・曹宇の3人の男児を授かります。この3人はいずれも出来が良く、その中でも曹沖は曹操に溺愛されていました。
将来を嘱望された曹沖
あの曹丕を差し置いて曹操が後継者にしたいと考えていた曹沖。彼は呉から送られてきた象の重さのはかり方を5歳にして答えて見せるなど、大人顔負けの知恵の持ち主でした。しかし、彼が特に優れていたのは知力だけではありません。その仁徳の高さこそが、彼が曹操に愛された所以だったのです。
ある日、曹操が大切にしていた鞍が鼠に食い破られてしまい、激怒した曹操は倉庫番を罰しようと息巻きます。その頃、鼠にものを食い破られることは不吉とされていたのです。これを見ていた曹沖は急いで倉庫番の元に走り、倉庫番に3日後に自首するように伝えて、自らの服に穴を開けます。
鼠にかじられて服に穴があいたという曹沖を見て曹操は着ている服までかじられるのだから、倉庫に置いてある鞍が鼠にかじられても仕方がないと倉庫番を咎めるのをやめたと言います。それほど縁の深くない家臣までかばう徳の高い曹沖は曹操だけではなく多くの家臣たちから将来を嘱望されていました。しかし、13歳という若さで世を去ってしまいます。曹操は小馬鹿にしていた加持祈祷にも手を出すほど曹沖を死なせまいと奔走しましたが、それでも愛する息子の命を救うことはできませんでした。
なんだかんだで安寧の日々を送った曹據
いよいよ魏が建国され、曹丕が皇帝として君臨。
曹丕は大嫌いな弟・曹植をチクチクといじめて遠くに追いやったり、曹熊にもチクチク攻撃をして自殺させたりと兄弟に優しくないことで有名ですが、曹據はわりと配慮してもらえたご様子。曹丕の計らいで母・環夫人の故郷である彭城郡の王に封ぜられたこともありました。
その後、曹丕や曹叡の気まぐれで各地を転々とした曹據でしたが、最終的にはやはり彭城王に落ち着きます。乱世を生きたわりには平和に暮らせた方なのではないでしょうか。
明帝の心の友・曹宇
曹宇は甥にあたる曹叡(明帝)と年が近かったこともあり、幼いころから大変仲がよかったそうです。そのため、曹叡が皇帝の位につくと曹宇はますます寵愛を受け、ついには中央に召し出されます。いつもよくしてくれる曹叡に曹宇は常々恩を感じていたました。
ある日、曹叡が病に倒れてしまいます。これを知った曹宇は毎日のようにお見舞いに訪れました。曹叡は自分の死を予見し、曹宇に中心となってもらい、次期皇帝である曹芳の世話をしてもらいたいと曹宇に頼みます。ところが、曹宇は自分にそんな力量は無いと断ります。
それを聞きつけた劉放らが横やりを入れてきて、曹爽と司馬懿に曹芳の世話を任せるべきだと主張。曹叡はこれを受けて悩みに悩むのですが、結局劉放らの提言に乗っかり、曹宇を中央から遠ざけてしまったのでした。それでも曹宇は中央から大切に扱われていたそうです。
環夫人の教育の賜物
早逝してしまったものの曹操に愛された曹沖や、慎ましく賢く生きた曹據・曹宇といった3人の息子に恵まれた環夫人。乱世にありながら無欲に謙虚に生きた彼らの性格は、環夫人だからこそ育むことができたのでしょう。そんな環夫人の孫である曹奐は後に皇帝をつとめています。曹奐は元々司馬家の傀儡皇帝のようなものでしたが、環夫人譲りの欲の無さで、静かに時代を譲った賢人でした。
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
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