三国志を知らない人でも周瑜の名前は断金の交わりの故事や三國無双等で知っている方は多いのではないでしょうか。また周瑜は諸葛孔明のライバルとしても描かれ、孫策の盟友としてもその名が知られています。そんな周瑜ですが孫策や孫権よりも名門で江南の君主になってもおかしくありませんでした。周瑜の家がどれくらい名門なのかここで紹介しましょう。
後漢王朝きっての名門周家
周瑜は揚州盧江郡出身の人です。周瑜の家は後漢王朝初期の皇帝章帝や和帝の頃に活躍した周栄と言う人物が祖先となっています。そして周瑜の従祖父・周景は後漢王朝の三公の一つ太尉に任命されています。この周景はとっても人気者で当代の名士の代表格と言われる人達と交流がありました。
周景が交流した人物の代表格として党錮の禁に関わった代表的な人物・陳蕃や第一次党錮の禁が発動した時の有名人・李膺、「八龍」と言われた秀才ぞろいの荀家の一人・荀緄等の有名人達と付き合いがありました。
このように周景は名士達とも付き合いながら、後漢王朝の腐敗の原因となっている宦官達を排除するように時の皇帝に進言。周景の進言は皇帝が採用しなかったので成りませんでしたが、気骨もある人だったことが伺えます。
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周景の息子も太尉
周景の長男周忠も優秀な人で、彼もまた周景同様太尉の位に就任することになります。周忠が太尉になったのは董卓が殺害され、李傕らが長安でやりたい放題やっている時に就任します。そのため周忠は三国志の初期の段階で太尉になっており、三国志の時代と無関係ではありません。このように周家は三国志の名門袁紹や荀彧らに負けないくらい名門と言える家柄だったのです。では周瑜のパパはいったいどの程度の地位にいたのでしょうか。
【北伐の真実に迫る】
周瑜のパパは官職に就任したばかり
周瑜のパパ・周異は周景や周忠のような高い地位にいたわけではありませんでした。周異は洛陽の令でもし黄巾の乱や宦官討伐作戦等が発動せず、後漢王朝が健全な状態だったら周景や周忠のような三公になっていたかもしれません。しかし動乱の時代に突入していたので高位の位に付く事はありませんでした。
周瑜は名門一家であったため、若殿としてもてはやされていた
周瑜の青年時代は中国各地で動乱が起き、小さい戦から大きな戦まで様々な戦いがそこら辺じゅうで起きていました。しかし周瑜は上記のように従祖父周景や周忠らが三公の位に登っていた事もあり、盧江では周家の若様としてもてはやされて過ごしてたそうです。
その後周瑜は孫策と出会って意気投合した事で孫家に協力するのですが、これだけの名門を輩出した家柄です。もし周瑜が本気を出せば孫家を凌駕するほどの名声と自らの実力を持って江南に君臨していたと思いますが、皆様はどのように思いますか。
三国志ライター黒田レンの独り言
三国志には多くの名門が登場します。特に有名なのは名門袁家の袁術と袁紹ではないでしょうか。二人は仲が悪く三国志初期の頃は二人の勢力が互いに戦いあう兄弟喧嘩のような雰囲気を出していました。
しかしこの二人に匹敵するほどの名門は三国志にも存在します。荀彧の家もかなりの名家ですし、今回紹介した周瑜の家も袁術や袁紹に負けないくらいの名家と言っていいでしょう。そんな名家出身の周瑜がどうして自分よりも家柄で劣る孫家に協力することになったのか。疑問に思う方もいると思います。
どうして周瑜が孫家のような成り上がりの勢力に付き従ったのか。これは次回書く機会が与えられましたら紹介したいと思います。はたしてこの周瑜のお話は続くのか。今後の発展に乞うご期待!!
参考 :ちくま学芸文庫 正史三国志呉書等
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