蜀の丞相・諸葛亮は西暦234年に北伐の前線・五丈原で亡くなりました。享年54。三国志演義では、首都の成都にいた皇帝・劉禅が丞相危篤の報を受けてから、尚書僕射・李福を五丈原に派遣し、諸葛亮の後任には誰がふさわしいかを諸葛亮にたずねさせています。
三国志演義の記述によれば、丞相危篤の報が発せられてから亡くなるまでの期間は長く見積もっても8日間しかなかったのですが、その期間で五丈原からの消息を成都に伝え、成都からの使者を五丈原に到着させることは可能なのでしょうか。三国志演義に記されている諸葛亮の命日は8月23日です。
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8月中旬からのカウントダウン
三国志演義の記述を時系列を追って整理してみましょう。秋8月、過労気味ではあるもののまあまあ普通に軍務をこなしていた諸葛亮のもとに、ひとつの消息がもたらされます。それは、蜀の北伐と同じタイミングで魏に対する遠征を行う約束をしていた呉が、魏に敗れて退却してしまったという知らせです。
この知らせを受けて諸葛亮はかつて患っていた血を吐く病が再発し、自ら寿命が長くないことを悟ります。その夜、天文を見ていると、死期が間近に迫っていることが星にあらわれていることに気付きました。そこで諸葛亮は延命の祈祷を行うことにしました。大小の灯明をともし、7日のあいだ灯明が消えなければ寿命が12年延びるというものです。これを開始したのが「八月のなかば」とあります。仮に、これを8月10日だとしましょう。亡くなる8月23日まで、当日を含めてあと14日間です。
危篤の報が発送されてから李福が到着するまで
延命の祈祷は順調に進み、6日目の晩となりました。このとき、敵襲を知らせに来た魏延が歩いた勢いで灯明が消えてしまい、祈祷は失敗します。これが8月15日です。いよいよ死期が迫ったとみた諸葛亮は自分の亡き後のことを姜維、楊儀らに指示したあと昏睡に陥り、翌日の夕方に目覚め、その晩は昏睡と覚醒を繰り返しました。これが8月16日の夜です。このあと、三国志演義にはこう書いてあります。
孔明連夜表奏后主。后主急遣尚書僕射李福、星夜径到五丈原。
(孔明 連夜 後主に表奏す。後主 急ぎ尚書僕射李福を遣り、星夜に径して五丈原に到る)
「連夜」の意味が分かりづらいですが、毎晩表文を発送していたという意味ではなく、成都まで何日もかかる道のりを昼も夜も止めることなく表文をバトンリレーさせたという意味でしょう。そして、それを受け取った皇帝・劉禅が急いで尚書僕射・李福を派遣したんですね。
「星夜に径して」とありますから、李福は夜を徹し道を急いで五丈原にかけつけたようです。三国志演義では李福が到着したその日に諸葛亮は亡くなっていますから、李福が到着したのは8月23日。8月16日夜に表文が成都に向けて発送され、それを受け取ってから成都を出発した李福が五丈原に到着するまで、8日間です。
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成都と五丈原の間の距離
地図を見たところ、成都と五丈原の間は街道を通って580kmほどのようです。この道のりを、書簡を届け、使者が来るまで8日間という日程で踏破することは可能なのでしょうか。片道580kmの道のり。1里=400mで換算すると1450里です。(三国時代の1里はこれより若干長いですが、本稿では便宜上400mで計算します)
当時、軍隊の通常の行軍スピードは1日30里とされていましたが、その速度だと片道だけで48日もかかってしまいます。1日30里は兵士の体力温存や輜重の運搬も鑑みてのスピードですので、夜を徹して道を急いだ李福はもっと早く移動したはずです。
三国時代で歴史に残る神速行軍といえば、西暦228年、蜀に寝返った孟達を司馬懿が討伐した時の行軍を思い浮かべます。その時、司馬懿は宛から上庸までの1200里を8日間で移動するという神速で孟達を驚かせ、備えのないうちに打ち破っています。これと同等の速度であっても成都から五丈原までは10日もかかってしまいます。この行軍は1日あたり60kmほどの速度ですので、歩兵の神速行軍だったのでしょう。
騎兵の神速行軍といえば、西暦208年、長坂の戦いの際に劉備軍を追撃した曹純の虎豹騎を思い浮かべます。虎豹騎は曹操軍の精鋭の騎兵隊で、劉備追撃のさいには一昼夜に300里以上を行軍したといいます。その虎豹騎のスピードでも成都から五丈原までは5日かかります。
ぎりぎり間に合うぞ、李福!
さて、8月16日夜に発送された表文。書簡だけなら駅伝方式ですから虎豹騎の倍のスピードで運ぶことができたとして、それでも2日半かかってしまいますから、成都に到着したのは8月19日の朝。そこから李福が五丈原に向けて出発すると、命日の8月23日までは当日を含めて5日です。さあ、虎豹騎とおんなじスピードで行軍すれば間に合いますよ! がんばれ、李福!
やっぱり間に合わない
現実的に考えて、成都から五丈原まで5日で移動するということは可能なのでしょうか。虎豹騎は騎兵の精鋭、いっぽう李福は文官。虎豹騎のような強行軍に耐えられるとは思えません。また、道のりも、虎豹騎が走った荊州は平地ですが、成都から五丈原までは大巴山脈と秦嶺山脈の二つの山越えがあり、崖に板を打ち付けたような狭っまい桟道を馬でぶっ飛ばすことはできません。8月16日に表文が発せられて李福が8月23日に間に合うことは不可能です。
吉川英治さんの工夫
この点、吉川英治さんの小説『三国志』では上手に処理されています。まず、事の発端を「涼秋八月の夜」とぼかして書いてあり、これを8月1日だとすれば、三国志演義で「八月のなかば」とあるのに比べて十日ほどの余裕ができます。
また、諸葛亮の容態については「幾日となく、同じ死生の彷徨状態が続いた」と記し、その間、人々が成都からの使者が間に合うかどうかを心配していたことが記されています。そして結局、吉川さんの三国志では、李福は到着しないのです。諸葛亮は五丈原にいた人々に遺言をして亡くなっています。李福とのやりとりについては、「原書三国志の描写」として紹介するにとどめています。きっと吉川さんも、8月なかばに倒れて23日までに李福に遺言は無理だろうとお考えになったんですね。
三国志ライター よかミカンの独り言
三国志演義を読んで感じた “この日程で李福は間に合うの?”という素朴な疑問をつきつめていくと、はからずも吉川英治さんの細かい配慮を知ることになりました。吉川さんは三国志演義の魅力を同時代の日本人に通用する形で書こうとしていろいろ工夫されていたんですね。
とは言え、三国志演義の生の描写もこれはこれで味わいがあります。虎豹騎なみの神速行軍でめっちゃ急いでかけつけた文官・李福。なかなか胸を打つと思いませんか?
道中くじけそうになりながらも刻限までに友人のもとへ駆けつけた『走れメロス』のお話を思い出しました。李福さんを、こう言って応援してあげたいです。「走れ、李福!」
※正史三国志蜀書楊戯伝の末尾にある『季漢輔臣賛』の注に引く『益部耆旧雑記』によれば、諸葛亮の病気が重くなったため皇帝・劉禅は李福をお見舞いに行かせ国家の大計を諮問させたとあり、日程的に差し迫った記述はありません。李福は諸葛亮と語らったあと辞去して成都に向かい、帰路の途中、数日経ったところで諸葛亮ともっと話さなければならないことがあると気付き五丈原に引き返しています。(三国志演義では即日戻ってきています)
※三国志演義のテキストは下記の李卓吾本を参照しました。『三国演義(新校新注本)』羅貫中 原著 瀋伯俊 李燁 校注 巴蜀書社出版 1993年11月
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