呉の大黒柱として、国の危機を何度も救ってきた英雄・陸遜(りくそん)ですが、三国志演義ではかなり渋い脇役ぶりです。生い立ちはほとんど語られていません。
三国志演義第38回に登場し、素性が明らかになるのが第83回のことです。そこで初めて陸遜が美男子であることが紹介されるのです。
夷陵の戦いでは劉備(りゅうび)相手に活躍し、諸葛孔明(しょかつこうめい)の策略に惑わされますが、その後の陸遜の奮闘ぶりは割愛されおり、孫権(そんけん)に追い詰められ、憤死したことすらも語られていません。
呉郡の豪族の出自
陸遜は揚州呉郡の出身で、呉郡には「呉の四姓」と呼ばれる有力豪族がいました。それが「顧」「張」「朱」そして「陸」です。
孫権は特別高貴な血筋だったわけでもなく、豪族連合の長のような存在でした。
豪族たちが政治面、軍事面で大きな働きをしたからこそ孫権は呉を建国することができたわけです。
陸遜はそんな呉の大黒柱である四姓「陸氏」の出自ということになります。真偽は定かではありませんが、陸氏は高祖(劉邦(りゅうほう))に儒教を勧め、太中大夫まで昇進した陸賈(りくか)の末裔とされています。
陸遜が最終的に政治面でも軍事面でもトップまで登り詰められたのは、陸氏の出自であったという背景を見逃すことはできないでしょう。
陸氏の本家の生まれではない
陸遜はあくまでも豪族の家系に生まれただけで、陸氏の当主の座が約束されていたわけではありません。傍系の出自です。名は遜ではなく、議でした。
本家の当主は、陸遜の従祖父であった盧江太守の陸康(りくこう)です。陸遜の父は九江郡の都尉を務めた陸駿(りくしゅん)という人物でしたが、陸遜が若い頃に亡くなっています。父を亡くした陸遜は、従祖父を頼り、盧江郡で役人として働きました。徐州攻めを画策する袁術(えんじゅつ)は、これまで親交のあった陸康に、兵糧を貸してもらうよう頼みましたが、陸康は拒否しています。
陸康は武勇に優れているだけでなく、義にも篤い人物で、不正を嫌っていたようです。皇帝の命令にも従わなかった過去があります。
おそらく私欲にまみれた袁術の方針に、大義名分はないと判断したのでしょう。以降、陸康は袁術に攻められるようになります。
陸氏の当主となる
陸康には陸績(りくせき)などの子供がいましたが、年齢なども考慮して(おそらく才能や器量も関係していたと思いますが)、陸遜が陸康の後継者となり、当主となりました。
ちなみに陸績も才能あふれる人物で、孫権に仕えました。張昭(ちょうしょう)に高く評価され、虞翻(ぐほん)や龐統(ほうとう)とも親しかったのですが、自己主張が強すぎて孫権に嫌われ、左遷させられています。
陸遜は亡くなった孫策(そんさく)の娘を正妻に迎え、孫氏と親戚関係になったことで、さらに重用されることになります。
ちなみに孫策にはもうひとり娘がおり、そちらは陸遜と同じく「呉の四姓」である顧氏の顧劭に嫁いでいます。さらにこの顧劭の母は、陸康の娘です。孫氏、陸氏、顧氏にはかなり強い結びつきがあったということです。
孫権によって有力豪族は始末される
しかし皇帝に即位した孫権は、顧氏と陸氏の勢力を少しずつ削いでいきます。皇太子を巡る骨肉の争い「二宮の変」によって、顧氏の当主・顧譚(こたん)は流罪となりました。
陸遜もまた、諫言を繰り返しましたが、それによって孫権に疎まれ、憤死しています。孫権は、もはや自分は有力豪族連合の長ではないということを示したかったのでしょうか。
三国志ライターろひもとの独り言
関羽(かんう)を倒すことに貢献し、劉備を撃退したことで、逆に三国志演義ではスポットが当たることの少ない陸遜ですが、三国志の一角を担う「呉」建国の立役者であることは間違いありません。
陸氏や顧氏、孫氏の関係などを見ていくと、呉が最も地縁に縛られ、人間関係としては窮屈な国だったかもしれませんね。
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