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【諸葛恪の栄光と破滅】最初の成功が人生を狂わせた呉の最高指導者

2018年9月10日


 

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諸葛恪

※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

人間が自信を持ち成長していく為に欠かせない要素に成功体験があります。

本来、失敗したり、成功したりして少しずつ成功体験を積み上げるのが理想ですが

人によっては分不相応(ぶんふそうおう)な成功を体験したせいで慢心(まんしん)し人生が狂ってしまう

そのようなケースも見られるのが成功体験の難しいポイントです。

今回取り上げる諸葛恪(しょかつかく)も、人生最初の成功が大きすぎて破滅を招いた人物でした。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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頭の回転が速く口達者な「だけ」の少年

諸葛恪と孫権

 

諸葛恪は西暦203年、呉の重臣諸葛瑾(しょかつきん)の長男として誕生しました。

この諸葛恪の少年時代は、一種のトンチ小僧として記録されています。

 

例えば、彼の父の諸葛瑾はロバ顔なので、孫権(そんけん)がロバの顔に

諸葛瑾子瑜(しゆ)と書き笑いものにした事がありました。

父を馬鹿にされ、ムッとした諸葛恪は孫権から筆を借り諸葛瑾子瑜の下に

之驢(のろ)」と付け足し諸葛瑾のロバに意味を変え孫権を感心させます。

赤兎馬

 

また、若い頃、諸葛恪が馬を孫権に献上しましたが、

その馬は耳が欠けていました。それをある人が咎めて

「体に欠損がある馬を献上するのは忠義に欠けないか?」と(ただ)すと

 

「母の娘に対する愛ほど尊いものはありませんが、

娘の耳を飾るイヤリングの為に母が娘の耳たぶに穴を空けるのは

やはり愛情に欠ける行為でしょうや?」と諸葛恪は返答しました。

 

確かに諸葛恪は聡明で頭の回転が速いドヤ顔少年ではあります。

ですが、ただそれだけの事であり、これという実績はありません。

それはそうでしたが、諸葛恪は諸葛瑾の息子として親の七光りで順当に出世

皇太子の孫登(そんとう)の学友として左輔都尉(さほとい)になります。

 

 

 

絶望的に数字に弱かった諸葛恪

絶望的に数字に弱かった諸葛恪

 

西暦220年、呉王になった孫権は当初、節度官(せつどかん)を置いて軍の兵糧を管理させました。

最初は徐詳(じょしょう)という人に任せていましたが、徐詳が死んだ為、諸葛恪を後任にします。

 

ところが、これを知った蜀の宰相、諸葛亮(しょかつりょう)

交友のあった呉の陸遜(りくそん)に手紙を出しました。

諸葛亮が陸遜に手紙

 

「諸葛恪は、性格が大雑把(おおざっぱ)なのでとても煩雑(はんざつ)な兵糧の管理など出来ません

兵糧は軍の大事ですから、私は遠くにいて大きなお世話とは知りつつも、どうしても安心できません

どうか交替して別の人間にするようにあなたから至尊(しそん)(孫権)に忠告して下さい」

 

これを聞いた陸遜は深刻に受け止めて、孫権に忠告します。

孫権は、諸葛恪を節度官から領兵官に転任させました。

 

ところが、それに対し諸葛恪が恨みをもった様子はありません。

恐らく、自分でも節度官は合わないと思っていたのでしょう。

あるいは数字に非常に弱く、頻繁に兵糧の出し入れがある節度官が

性に合わなかったのかも知れません。

 

一方、陸遜に手紙を出した叔父の諸葛亮は自分の仕事でもないのに、

わざわざ帳簿をチエックして回り部下に顰蹙(ひんしゅく)を買うほどに

細々とした計算が得意な真面目人間でした。

諸葛亮

 

特に兵糧に神経を使った諸葛亮は五度の北伐でも兵糧切れの大敗がなく

その為に何度も退却しながら人心を失う事がありませんでした。

諸葛恪の生来の大雑把さは彼の破滅にも少なからず影響を与えます。

 

山越討伐で予想外の成功を挙げる

諸葛恪

 

その後、諸葛恪には、これという手柄がありませんでした。

こうして、昔日の天才少年は三十路を迎えようとしていたのです。

名声に見合う手柄を求めて焦る諸葛恪は孫権に進言します。

 

「丹陽郡には勇猛果敢(ゆうもうかかん)山越族(さんえつぞく)が存在しております。

私に任せて下されば、三年では精強な兵を4万得られます」

 

このようにして(しき)りに自分を外官として丹陽に派遣してくれと懇願(こんがん)します。

しかし、呉では非難囂々(ひななんごうごう)、丹陽の山越族は精強で獣も同然であり

その地形は険阻(けんそ)だから、どうしても目的通りにはならない。

兵力をドブに捨てるようなものだと猛反対が起こります。

 

父である諸葛瑾でさえ、

「恪は我が家を大きくするどころか一族を滅ぼす」と嘆きました。

諸葛瑾

 

ですが、諸葛恪は自分の出世の為ですから普段の大雑把さを置いて

かなり綿密な計画を立て孫権に説明しました。

 

孫権は、半信半疑でしたが仮に話半分でも精兵2万を得られるなら

十分に実行する価値はあると考え、反対を押し切ります。

西暦234年、孫権は、諸葛恪を撫越将軍(ぶえつしょうぐん)領丹楊太守(りょうたんようたいしゅ)に任命し

武騎三百を与えました。

 

諸葛恪は丹陽に入ると、四郡の属城の官吏に命令して、

屯田(とんでん)の周囲の防壁を厳重にし固く守る事だけを命じました。

そして、山越族が山を下りると防壁を盾にして農作物を守って、

種籾(たねもみ)一つさえ奪わせませんでした。

山越族

 

これまで、適当に平地に下りては略奪をして生活していた山越族は

餓えに苦しむようになり、次々と投降してきました。

諸葛恪は投降した山越民を丁重に扱ったので、続々と投降する者が増え

ついに三年で4万の山越兵を獲得する事に成功します。

 

孫権は、諸葛恪の手柄を大いに喜び、勅使(ちょくし)を派遣してべた褒めに褒め

諸葛恪を威北将軍に任命して都郷侯(とごうこう)にしました。

戦争を極力回避した上に目的を達したのでお見事としか言えませんが

この時に、予想外の成功を得た事で諸葛恪は実力以上の自信をつけ

次第に、実力以上の手柄を立てようと急ぎ始めるのです。

 

孫権の遺言で孫亮の補佐を任されるが信用されず

諸葛恪

 

その後、諸葛恪は手勢を率いて魏領に侵攻しては領民を引っ張ってくるなど

小さな手柄を幾つも立てるようになりました。

それで自信がついたのか、諸葛恪は孫権に寿春(じゅしゅん)攻略を進言します。

 

しかし孫権は寿春が魏の重要な戦略拠点である事から許可しませんでした。

(おまえね、山越と魏の正規兵はわけが違うよ・・)という事でしょう。

諸葛恪がかなり焦って、手柄を求めているのが透けてみえます。

陸遜

 

また諸葛恪の上官の陸遜は、諸葛恪が上の人間に対して反抗的であり

下の人間を見下す性質がある事を嫌い常々注意していました。

しかし、陸遜が246年に死去すると、その後任の大将軍になったのは

諸葛恪でした。

 

西暦252年、孫権は病に倒れ、末子の孫亮(そんりょう)を立てますが、

この孫亮は僅かに9歳、そこで孫権は諸葛恪を太子太傅にします。

ですが、孫権は諸葛恪をフリーハンドの権限を与えず

孫弘(そんこう)孫峻(しんしゅん)滕胤(とういん)呂拠(りょきょ)の4名を共に指名しています。

 

ところが、この4人で諸葛恪と仲が悪かった孫弘が

遺言を反故にし諸葛恪を殺そうとしました。

 

それを察知した孫峻が諸葛恪に告げ、諸葛恪は先手を打って孫弘を誅殺(ちゅうさつ)

結果として孫呉の政権を掌握する事になるのです。

こうして、トンチ小僧は孫呉の頂点の権力者に登り詰めたのです。

 

東興の戦いに勝利し人気は絶頂を迎える

諸葛恪

 

諸葛恪は政権を握ると減税を施し、住民の監視を緩くし

ガチガチに厳しくなっていた法令を緩くしたので、

呉の民衆で諸葛恪の善政を喜ばない者はありませんでした。

 

西暦252年、孫権が死去した隙を突き司馬師(しばし)が呉に侵攻を開始しました。

魏では前年に司馬懿(しばい)が死去しており、司馬師は後継者としての実績が

欲しかったようです。

司馬師

 

それを察知した諸葛恪は東興(とうこう)の地に堤防を築いて巣湖(そうこ)()き止め

同時に二つの城を築城して侵攻に備えます。

河を堰き止められては、水軍を使えない魏軍は、諸葛誕(しょかつたん)

胡遵(こじゅん)に命じ7万の軍勢で堤防を破壊しようと進軍します。

諸葛恪はそれを受けて、4万を率いて昼夜兼行で迎撃に向かいました。

 

その頃、魏軍は(はしけ)を使って河を渡り堤防の上に布陣して、

全力で両城を攻めていましたが、城は頑丈でなかなか抜けません。

季節は冬で将兵が凍えて士気が下がるのを見た魏の将軍達は、

一旦、攻撃を停めて兵士に酒盛りを許しました。

丁奉

 

そこに呉の先遣隊の丁奉(ていほう)の3000名が到着しますが

出来るだけ早く到着しようと、兜のみをかぶり刀と盾を装備していて

あとは軽装という姿でした。

 

これを見た魏の将兵は、呉兵のみすぼらしさに大笑いし、

すぐに迎撃に備えようとはしませんでした。

これを見て丁奉はチャンス到来と堤防の上の魏軍に殺到します。

虚を突かれた魏軍は大混乱に(おちい)り河に飛び込んで逃げようとし、

寒さで大勢が溺死(できし)しました。

 

ここに遅れてきた呂拠が到着して、丁奉と共に滅茶苦茶(めちゃくちゃ)に斬りまくり

算を乱した諸葛誕と胡遵は退却します。

東興の作戦が失敗したので、司馬師は南郡、武昌に進軍した

王昶(おうちょう)毋丘倹(かんきゅうけん)も退却させます。

呉にとっては、大帝孫権が死んで最初の戦争だけに

大きな価値ある勝利になりました。

 

しかし、誰よりも勝利に自信を深めて増長したのは諸葛恪でした。

山越族だけではなく、魏軍も撃退したという自信は、

諸葛恪を積極的な魏討伐論者に変えてしまうのです。

 

 

周囲の猛反対を押し切り合肥新城を攻め、大敗北する

周囲の猛反対を押し切り合肥新城を攻め、大敗北する諸葛恪

 

気を良くした諸葛恪は、翌年、再び魏を攻めると宣言しました。

これには、再び呉で猛反対が発生します。

そうでなくても、連年の出兵で民は疲れ果てているのに、

再度、大規模な兵を挙げるなど言語道断(ごんごどうだん)だと言うのです。

 

ですが、相手は昨年、魏を相手に大勝利を収めた諸葛恪

それも口論では誰にも負けない口八丁の天才でした。

特に、中散大夫蔣延(しょうえん)は諸葛恪と論争した挙句に斬られかけ

救い出される程にエキサイトしてしまいました。

 

そこで、諸葛恪は周囲に反論を言わせない理屈を産み出します。

それが叔父の諸葛亮が出した出師の表の焼き直しのような

諸葛恪版の出師の表でした。

 

とても長いので要約してしまうと、

 

現在魏は、司馬懿が死んで若年の司馬師が政治を見ていて

近年(まれ)に見る程に弱体化している。

しかし、それも一時の事であり、領土の大きさや人口を考えれば

(またた)く間に再び強大になってしまうだろう。

戦うなら今しかない!民草が疲れているとか何とか諸君は逃げるが

あと十年放置すれば、魏との国力差は戦争にならない程に開く

そうなっては戦いたくても戦えないのだ。

 

まぁ、このような内容で、面と向かって反論でき難い文言です。

それで結局、そうまで言うなら勝手にすればいいと

呉の重臣達は(さじ)を投げて一任してしまうのです。

 

喜び勇んで兵を出撃させた諸葛恪ですが、その目的は淮南(わいなん)に兵を進め

呉軍の威容で魏の人民を孫呉に囲い込むというセコイものでした。

そこで、ある諸将が諸葛恪の作戦に文句をつけます。

 

「そんな風に兵を見せつけても、人民は逃げるばかりで

将兵は疲労して功は少ないというべきです

むしろ合肥新城を攻めて包囲するのがベストでしょう

そうすれば、魏は必ず救援を出してきますから、

これを破れば辺境をウロウロするより、何倍も大手柄になりますよ」

孫権

 

普通なら、こんな提案は却下するでしょう。

そもそも合肥は大帝、孫権が四度攻めて毎回惨敗した呉の鬼門です。

仮に、攻めるにしても一度は戻り攻城戦の準備をして出撃でしょう。

しかし、諸葛恪の増長は大変なレベルに到達していました。

 

「おお!それはいい考えだ」と予定を変更して

何の考えもなく合肥新城を攻めてしまったのです。

 

もちろん、合肥新城は1~2か月包囲した程度では落ちません。

攻城兵器の備えも無いなら、なおさらの事でした。

時は真夏に入り、疲れた兵士は汚染された河の水を飲んで疫病に感染

日に日に病人が増え死屍累々(ししるいるい)の大損害になります。

病気になる呉の兵士

 

ところが、現実を直視できず混乱した諸葛恪は退却を進言する部下を殺害

それが度々になったので、状況がどんなに悲惨になっても部下は沈黙し

正確な戦況を報告しなくなりました。

 

こうして、損害がどうしようもなくなった所で諸葛恪はやっと退却を決断

ですが、もちろん、すべては手遅れでした。

 

 

独裁者と化した諸葛恪は孫峻に殺され人生を閉じる

独裁者と化した諸葛恪は孫峻に殺され人生を閉じる

 

東興の勝利を帳消しにする大敗北で孫呉の人民は諸葛恪を恨みます。

身の危険を感じた諸葛恪は恐怖心から疑り深くなり、自分が任命した役人を

次々にクビにして近親者を登用するなど政治を私物化し始めました。

 

そして、少しでも自分に批判的な者は逮捕して厳罰に処したので

初期の自由な空気は薄れ宮廷から民衆までが諸葛恪を怖れるようになります。

遂には戒厳令(かいげんれい)を布告して青州と徐州を攻めると言い出し、

遂に宮廷では諸葛恪を排除する考えが持ち上がる事になりました。

 

その実行者は皮肉な事に、かつて孫弘を排除して諸葛恪の権力掌握に

一役買った孫峻でした。

孫峻

 

皇帝孫亮(そんりょう)の命令として諸葛恪を呼び出した孫峻は、宴会の最中に中座して

軍装に着替えると「諸葛恪を逮捕せよ」と叫んで伏兵を乱入させます。

剣を抜く暇もなく、諸葛恪は孫峻に斬られて殺害されました。

孫呉の人々は諸葛恪の死を喜び、(ののし)りの言葉を吐いたと伝わります。

 

 

 

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